2006年04月09日
南風原陸軍病院壕跡 2006/2/6
識名園から、南風原町の黄金森(クガニムイ)に向かいました。
ここを訪ねるのは今回で3回目。
途中でもう1ヶ所訪ねた場所があったのですが、最終日の記事に関連するので、そちらで一緒に触れることにします。
南風原陸軍病院というのは通称で、正式には沖縄陸軍病院。ひめゆり学徒隊が看護補助要員としてここに動員されました。
黄金森にあったのは第一・第二外科で、離れた場所にあった第三外科壕群の跡地は、現在住宅街になっているようです。
南風原町はここを文化財に指定しています。第二次大戦の戦跡を文化財に指定したのは、全国で初めてだったそうです。
一部の壕を公開する計画が進んでいるためか、以前訪れた時よりも全体的に多少整備されている印象でした。

南風原陸軍病院壕跡のある黄金森
この丘の地下に人工の壕が張り巡らされています。
張り巡らすといっても、内部で他の壕とつながっているものもあれば、そうでないものもあります。
『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』
の仲宗根政善氏の手記から引用。
病院は丘の両面から中央へ向かってムカデの足のように壕を掘っていた。各壕を丘の背骨で連絡し、縦横に貫通する計画だと聞いたが、まだ工程の四分の一もはかどっていなかった。
(文庫版のP22より)
これは学徒隊が病院壕に到着した翌日(1945年3月25日)の描写ですから、病院壕は未完成のまま戦争に突入したことになります。
もしこれが完成していれば、学生が伝令のために危険な壕外に出る必要はなく、もうすこし安全に勤務ができたでしょう。
患者の収容可能人数も多少は増えて、壕外で寝台の空きを待たされる人もすこしは減らせたでしょう。もっとも、包帯も薬品も人員も絶望的なまでに不足していた状況では、「避難」以上の意味があったかどうかはわかりませんが・・・・・・。

この道は学生が「飯上げ」(食事の受け取り)のために通った道とほぼ重なっているようです。炊事場は県道241号線(最初の写真手前の道路)を越えたところにあり、砲弾の降り注ぐ中、天秤棒を担いで通う危険な任務だったといいます。
どんなに想像力を振り絞っても、たった61年前(の、ちょうど今頃)にここを命がけで駆けていった女学生たちがいたということは、なかなか実感できません。

右手に広くなっている所があり・・・・・・

「悲風の丘」の碑
故・佐藤栄作元首相の揮毫。
佐藤栄作は沖縄の「復帰」時の総理大臣。
僕は佐藤栄作にあまり良いイメージがないので、正直ちょっと嫌ですね、この石碑(正直に言い過ぎ)。

「沖縄戦跡 南風原陸軍病院壕趾 重傷患者二千余名自決之地」
後ろに見えるのは壕の跡でしょうか。
近くに設置されていた説明板の文章から引用します。
5月22日、首里城地下におかれた第32軍司令部が摩文仁に撤退し、陸軍病院も南部へ移動することになりました。その際、重傷患者に青酸カリが配られ、自決が強要された壕もあります。「南風原陸軍病院壕趾」碑には、「重傷患者二千余名自決之地」と刻まれていますが、この数字に確かな根拠はなく、犠牲者の数はいまだ明らかではありません。
末尾に「南風原文化センター 2002年」とあったので、わりと新しい文章ですね。
自決が強要された壕「も」あるとか、数字に確かな根拠はない等、ずいぶん慎重な書き方をしているという印象を受けました。
正確を期するのは良いことなんですけどね――基本的には。
旧日本軍に都合の悪いことを書かせたくない人達から抗議でも受けていたのかと、つい勘繰ってしまいました。最近よく聞きますから、そういう話。
考えすぎであれば良いのですが。
以前に来た時は、石碑のある場所からもうすこし奥に進むと、落盤した壕の入口の跡をはっきりと見ることができました。
そこでハブに遭遇して猛ダッシュで逃げたので、よく覚えています。
今回はなぜか木が繁っていて、奥に行くことができませんでした。

この石碑の周辺、やはり最近になって手が加えられたのではないかと思います。
前はもっと広かったような気がしますし、どうもこれまで来た時と様子が違っていました。
ついでに南風原町の名誉のために断っておくと、この丘の近くに住んでいた沖縄出身の友人は、20年以上住んでいて一度もハブを見たことがないと言っていました。

ここから上には行ったことがありませんでしたが、今回は冬なので登ってみました。
冬ならハブの心配はありませんから。

登っていくと、分かれ道になっている所にこんな石碑(?)がありました。病院壕と何か関係があるのでしょうか。
奥には御嶽みたいなものが見えます。
そういえば、「黄金森」とはいかにもいわれがありそうな名前ですが、元々はどういう場所だったのでしょう。御嶽はそれに関係するのかも知れません。
ここから右手は登り坂、正面は下り坂になっていました。
右手を行けば丘の頂上に出て、下りの道を行けば、戦闘が激化するまで学徒隊の待機所になっていた24号壕跡があると思います。
今回はこの「仏ぬ前」で引き返すことにしました。

丘の反対側にまわると、この立札がありました。
これも最近立てられたものでしょう。

黄金森の東側に広がる畑
まるで何事もなかったかのようにのどかな風景です。

黄金森公園陸上競技場
9年前はまだ建設工事中でした。
陸軍病院壕のあった場所からは外れているようですが、「すごい所に造るんだなあ」というのが率直な感想。
近くにある南風原文化センターも見学しました。
病院壕から出土した薬品のビンや注射器などの遺留品が展示されています。
壕内の様子を再現した実物大模型もあり、ほんの2~3mなのに、通り抜けるのにちょっと勇気がいります。
そこに置かれている看護婦のマネキンの胸には、「上原球子」と書かれた名札がつけられていました。この名前は、学生や患者にとても慕われていた、上原貴美子さんという看護婦長にちなんでいるそうです。球子というのは、陸軍病院が所属していた「球18803部隊」から来ています。
25歳の若さで沖縄戦の犠牲となった上原婦長、後輩の看護婦を砲弾の破片からかばっての死だったそうです。
(このことは、初めて映画化された『ひめゆりの塔』
の主演女優である香川京子さんの著書、『ひめゆりたちの祈り』
に書かれています)
余談ですが、1995年の映画『ひめゆりの塔』
では、熊谷真実がこの人の役を演じていました。意外にというか、けっこう雰囲気が出ているのではないかと思いました。実際に上原婦長に会ったことのある人の評価はどうだったのでしょう。
南風原文化センターには、沖縄戦の遺留品だけでなく、南風原町の歴史や民俗などの展示もあります。入館無料にもかかわらず、結構充実していました。
ここも3回目でしたが、いつもがらんとしているのがもったいないですね。
もっとも、僕が訪れたのは毎回平日の昼間だったので、当然と言えば当然なのですが。
ところで、南風原町で「南風原を県庁所在地県都に」という看板を見かけましたが、那覇市と合併する動きでもあるんでしょうか。南風原町公式HPにそれらしいことは書いてなさそうです。
それにしても「県庁所在地に」とは、(合併を指しているとすれば)モノは言いようだなあとちょっと感心しました。
個人的に南風原町の雰囲気が好きなので、あまり変わってほしくはないと思います。大里村が南城市になった今、沖縄県では海に面していない唯一の自治体になったわけですし(僕はどちらかと言うと海より山が好きなので、だからこそ落ち着くのかも知れません)。
まあ、よそ者の立場からの無責任な発言ではありますが・・・・・・。
・・・・・・さて今回、沖縄戦時の病院壕内の様子がどんなものだったかという、肝心な部分が抜け落ちた記事になってしまいました。しかし生半可な気持であの描写はできないです。そもそも、僕などが説明するまでもないことでしょう。
「南部撤退するまでの2カ月間、黄金森は地獄の丘となった」
(南風原町HPの南風原陸軍病院壕の説明文より)
この後、先日記事をアップした富盛の石彫大獅子に寄ってから、ひめゆりの塔に向かいました。
次回へつづく m(_ _)m
余談:南風原町HPで紹介されている「飛び安里」、イラストがまるでスタジオジブリ。
人気歴史blogランキングへ
ここを訪ねるのは今回で3回目。
途中でもう1ヶ所訪ねた場所があったのですが、最終日の記事に関連するので、そちらで一緒に触れることにします。
南風原陸軍病院というのは通称で、正式には沖縄陸軍病院。ひめゆり学徒隊が看護補助要員としてここに動員されました。
黄金森にあったのは第一・第二外科で、離れた場所にあった第三外科壕群の跡地は、現在住宅街になっているようです。
南風原町はここを文化財に指定しています。第二次大戦の戦跡を文化財に指定したのは、全国で初めてだったそうです。
一部の壕を公開する計画が進んでいるためか、以前訪れた時よりも全体的に多少整備されている印象でした。

南風原陸軍病院壕跡のある黄金森
この丘の地下に人工の壕が張り巡らされています。
張り巡らすといっても、内部で他の壕とつながっているものもあれば、そうでないものもあります。
『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』
病院は丘の両面から中央へ向かってムカデの足のように壕を掘っていた。各壕を丘の背骨で連絡し、縦横に貫通する計画だと聞いたが、まだ工程の四分の一もはかどっていなかった。
(文庫版のP22より)
これは学徒隊が病院壕に到着した翌日(1945年3月25日)の描写ですから、病院壕は未完成のまま戦争に突入したことになります。
もしこれが完成していれば、学生が伝令のために危険な壕外に出る必要はなく、もうすこし安全に勤務ができたでしょう。
患者の収容可能人数も多少は増えて、壕外で寝台の空きを待たされる人もすこしは減らせたでしょう。もっとも、包帯も薬品も人員も絶望的なまでに不足していた状況では、「避難」以上の意味があったかどうかはわかりませんが・・・・・・。

この道は学生が「飯上げ」(食事の受け取り)のために通った道とほぼ重なっているようです。炊事場は県道241号線(最初の写真手前の道路)を越えたところにあり、砲弾の降り注ぐ中、天秤棒を担いで通う危険な任務だったといいます。
どんなに想像力を振り絞っても、たった61年前(の、ちょうど今頃)にここを命がけで駆けていった女学生たちがいたということは、なかなか実感できません。

右手に広くなっている所があり・・・・・・

「悲風の丘」の碑
故・佐藤栄作元首相の揮毫。
佐藤栄作は沖縄の「復帰」時の総理大臣。
僕は佐藤栄作にあまり良いイメージがないので、正直ちょっと嫌ですね、この石碑(正直に言い過ぎ)。

「沖縄戦跡 南風原陸軍病院壕趾 重傷患者二千余名自決之地」
後ろに見えるのは壕の跡でしょうか。
近くに設置されていた説明板の文章から引用します。
5月22日、首里城地下におかれた第32軍司令部が摩文仁に撤退し、陸軍病院も南部へ移動することになりました。その際、重傷患者に青酸カリが配られ、自決が強要された壕もあります。「南風原陸軍病院壕趾」碑には、「重傷患者二千余名自決之地」と刻まれていますが、この数字に確かな根拠はなく、犠牲者の数はいまだ明らかではありません。
末尾に「南風原文化センター 2002年」とあったので、わりと新しい文章ですね。
自決が強要された壕「も」あるとか、数字に確かな根拠はない等、ずいぶん慎重な書き方をしているという印象を受けました。
正確を期するのは良いことなんですけどね――基本的には。
旧日本軍に都合の悪いことを書かせたくない人達から抗議でも受けていたのかと、つい勘繰ってしまいました。最近よく聞きますから、そういう話。
考えすぎであれば良いのですが。
以前に来た時は、石碑のある場所からもうすこし奥に進むと、落盤した壕の入口の跡をはっきりと見ることができました。
そこでハブに遭遇して猛ダッシュで逃げたので、よく覚えています。
今回はなぜか木が繁っていて、奥に行くことができませんでした。

この石碑の周辺、やはり最近になって手が加えられたのではないかと思います。
前はもっと広かったような気がしますし、どうもこれまで来た時と様子が違っていました。
ついでに南風原町の名誉のために断っておくと、この丘の近くに住んでいた沖縄出身の友人は、20年以上住んでいて一度もハブを見たことがないと言っていました。

ここから上には行ったことがありませんでしたが、今回は冬なので登ってみました。
冬ならハブの心配はありませんから。

登っていくと、分かれ道になっている所にこんな石碑(?)がありました。病院壕と何か関係があるのでしょうか。
奥には御嶽みたいなものが見えます。
そういえば、「黄金森」とはいかにもいわれがありそうな名前ですが、元々はどういう場所だったのでしょう。御嶽はそれに関係するのかも知れません。
ここから右手は登り坂、正面は下り坂になっていました。
右手を行けば丘の頂上に出て、下りの道を行けば、戦闘が激化するまで学徒隊の待機所になっていた24号壕跡があると思います。
今回はこの「仏ぬ前」で引き返すことにしました。

丘の反対側にまわると、この立札がありました。
これも最近立てられたものでしょう。

黄金森の東側に広がる畑
まるで何事もなかったかのようにのどかな風景です。

黄金森公園陸上競技場
9年前はまだ建設工事中でした。
陸軍病院壕のあった場所からは外れているようですが、「すごい所に造るんだなあ」というのが率直な感想。
近くにある南風原文化センターも見学しました。
病院壕から出土した薬品のビンや注射器などの遺留品が展示されています。
壕内の様子を再現した実物大模型もあり、ほんの2~3mなのに、通り抜けるのにちょっと勇気がいります。
そこに置かれている看護婦のマネキンの胸には、「上原球子」と書かれた名札がつけられていました。この名前は、学生や患者にとても慕われていた、上原貴美子さんという看護婦長にちなんでいるそうです。球子というのは、陸軍病院が所属していた「球18803部隊」から来ています。
25歳の若さで沖縄戦の犠牲となった上原婦長、後輩の看護婦を砲弾の破片からかばっての死だったそうです。
(このことは、初めて映画化された『ひめゆりの塔』
余談ですが、1995年の映画『ひめゆりの塔』
南風原文化センターには、沖縄戦の遺留品だけでなく、南風原町の歴史や民俗などの展示もあります。入館無料にもかかわらず、結構充実していました。
ここも3回目でしたが、いつもがらんとしているのがもったいないですね。
もっとも、僕が訪れたのは毎回平日の昼間だったので、当然と言えば当然なのですが。
ところで、南風原町で「南風原を
それにしても「県庁所在地に」とは、(合併を指しているとすれば)モノは言いようだなあとちょっと感心しました。
個人的に南風原町の雰囲気が好きなので、あまり変わってほしくはないと思います。大里村が南城市になった今、沖縄県では海に面していない唯一の自治体になったわけですし(僕はどちらかと言うと海より山が好きなので、だからこそ落ち着くのかも知れません)。
まあ、よそ者の立場からの無責任な発言ではありますが・・・・・・。
・・・・・・さて今回、沖縄戦時の病院壕内の様子がどんなものだったかという、肝心な部分が抜け落ちた記事になってしまいました。しかし生半可な気持であの描写はできないです。そもそも、僕などが説明するまでもないことでしょう。
「南部撤退するまでの2カ月間、黄金森は地獄の丘となった」
(南風原町HPの南風原陸軍病院壕の説明文より)
この後、先日記事をアップした富盛の石彫大獅子に寄ってから、ひめゆりの塔に向かいました。
次回へつづく m(_ _)m
余談:南風原町HPで紹介されている「飛び安里」、イラストがまるでスタジオジブリ。
人気歴史blogランキングへ
この記事へのトラックバックURL
http://tanbounote.ti-da.net/t748275
この記事へのトラックバック
南風原町には今も多くの戦跡が残っている。もちろんそれは南風原に限ったことではなのだけれど。前に紹介した南風原文化センターでもその様子や数々の遺品が展示されている。この黄金...
黄金森の沖縄陸軍病院壕【南風原タウン情報】at 2006年04月10日 07:30
この記事へのコメント
はじめましてひやまたつるといいます
Posted by 部山達 at 2006年09月19日 17:27
はじめまして、茶太郎です(^^)
Posted by 茶太郎 at 2006年09月26日 23:45






日本の地域ブログ大集合!津々浦々の美味い・楽しいがここに!