2006年03月15日
程順則の墓 2006/2/4
今回は近世琉球史における有名人の中でも無敵の「いい人」、名護親方こと程順則のお墓参りです。
とにかくこの人は類稀な人格者だったようで、悪く言われている(書かれている)のを聞いたことがありません。
「名護聖人」とも呼ばれた程順則は、現在でも少なからぬ人々に敬意をもって語られているようです。
この頃にはデジカメのバッテリーが残り少なくなっていたので、ここでは必要最低限しか写真を撮りませんでした。
ですので、今回はちょっと趣向を変えて、程順則のごく簡単な解説に写真をはさむ形で記事を進めていきたいと思います。

伊江御殿墓
程順則の墓に行く前に立ち寄った場所。
建立年が確定できる亀甲墓としては最古のもののひとつ。
扉が閉まっていたので近くで見ることはできませんでしたが、「立ち寄る」という意識だったために罰があたったのでしょう。
さて、程順則は1663年生まれの久米村人。蔡温より19歳年長です。
蔡温の父・蔡鐸とは20歳違いなので、ちょうど蔡鐸と蔡温の中間を埋める世代と言えるでしょう。
琉球きっての碩学であった彼は、唐旅(清国への旅役)を4度、江戸上りも1度勤め、それぞれの地で名のある文人・学者達と交流しました。日本では新井白石とも会談しています。
程順則の功績としてよく知られているのが、久米村に「明倫堂」という琉球初の公立学校を創設したこと、そして『六諭衍義(りくゆえんぎ)』を中国から持ち帰ったことです。
「六諭」というのは明の太祖・洪武帝が民衆教化のために作成した六つの教訓で、明末の范鋐(はん・こう)がこれをわかりやすく解説したものが『六諭衍義』です。
『六諭衍義』は薩摩を通して将軍徳川吉宗に献上され、室鳩巣が和文に直したものが『六諭衍義大意』として寺子屋で使用されました。
琉球では主に中国語の教科書として使われたようです。

識名霊園
白い石碑が建っているのが程順則の墓です。
場所は識名バス停のすぐ近く。
公人としての程順則の経歴は順風満帆もいいところで、位は三司官座敷にまで昇り、久米村最高職である総役(総理唐栄司)も勤めるという、久米村人としてはこれ以上ない栄達を遂げています(蔡温は例外中の例外・・・・・・と、前にもこんなこと書きましたが)。
しかし私人としての彼の人生は不幸の連続で、幼少時に父を失い、弟と最初の妻も早世し、さらに4人の息子すべてに若くして先立たれるという過酷なものでした。
程順則自身は当時としては長命で、72歳の天寿を全うしています。

程順則の墓
かなり新しいですね。
程順則には多くの面白い伝承があるので、いずれここでも紹介してみようと思っています。
民話・伝承には「親方話」という一ジャンルがあり、その中でも名護親方はよく登場する人物です。嫌味なほど「いい人」の話もあれば、さすが知恵者と思わせる話もあります。
同じ久米村出身の蔡温とはよく比較されたらしく、名護親方と具志頭親方の知恵比べ(たいてい名護親方が勝つ)や、2人の性格が対照的であったことを示す話なども複数残されています。

「程順則 名護寵文(ちょうぶん)之墓」
王朝時代すでに『総理唐栄司程公伝』『程公寵文伝』という伝記が書かれています。
王朝時代に伝記が書かれた人物というのはこの人ぐらいではないかと思うのですが、自叙伝を書いた蔡温と伝記を書かれた程順則というあたりも、2人の個性の違いを象徴しているような気がします。

「大正十二年五月建之 沖縄史蹟保存會 ■爵入江為守」
破損している■の箇所には「子」が入るでしょう。羽地朝秀の墓にも同じような石碑がありました。
この石碑は一度割れたものをコンクリで補強したみたいですね。
程順則が「名護親方」と呼ばれるようになったのは、名護間切の総地頭職に任じられた晩年に近い頃のことです。彼は人生のほとんどの期間を「古波蔵」の名字で過ごしました。
しかし現在では、「名護親方=程順則」というのが一般的です。
実は僕が近世琉球史に興味を持った最初のきっかけがこの人だったのですが、そのことはまた機会があれば書くことにします。
ここまでで旅行3日目の記録は終わり。
次回ようやく4日目に入ります。
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とにかくこの人は類稀な人格者だったようで、悪く言われている(書かれている)のを聞いたことがありません。
「名護聖人」とも呼ばれた程順則は、現在でも少なからぬ人々に敬意をもって語られているようです。
この頃にはデジカメのバッテリーが残り少なくなっていたので、ここでは必要最低限しか写真を撮りませんでした。
ですので、今回はちょっと趣向を変えて、程順則のごく簡単な解説に写真をはさむ形で記事を進めていきたいと思います。

伊江御殿墓
程順則の墓に行く前に立ち寄った場所。
建立年が確定できる亀甲墓としては最古のもののひとつ。
扉が閉まっていたので近くで見ることはできませんでしたが、「立ち寄る」という意識だったために罰があたったのでしょう。
さて、程順則は1663年生まれの久米村人。蔡温より19歳年長です。
蔡温の父・蔡鐸とは20歳違いなので、ちょうど蔡鐸と蔡温の中間を埋める世代と言えるでしょう。
琉球きっての碩学であった彼は、唐旅(清国への旅役)を4度、江戸上りも1度勤め、それぞれの地で名のある文人・学者達と交流しました。日本では新井白石とも会談しています。
程順則の功績としてよく知られているのが、久米村に「明倫堂」という琉球初の公立学校を創設したこと、そして『六諭衍義(りくゆえんぎ)』を中国から持ち帰ったことです。
「六諭」というのは明の太祖・洪武帝が民衆教化のために作成した六つの教訓で、明末の范鋐(はん・こう)がこれをわかりやすく解説したものが『六諭衍義』です。
『六諭衍義』は薩摩を通して将軍徳川吉宗に献上され、室鳩巣が和文に直したものが『六諭衍義大意』として寺子屋で使用されました。
琉球では主に中国語の教科書として使われたようです。

識名霊園
白い石碑が建っているのが程順則の墓です。
場所は識名バス停のすぐ近く。
公人としての程順則の経歴は順風満帆もいいところで、位は三司官座敷にまで昇り、久米村最高職である総役(総理唐栄司)も勤めるという、久米村人としてはこれ以上ない栄達を遂げています(蔡温は例外中の例外・・・・・・と、前にもこんなこと書きましたが)。
しかし私人としての彼の人生は不幸の連続で、幼少時に父を失い、弟と最初の妻も早世し、さらに4人の息子すべてに若くして先立たれるという過酷なものでした。
程順則自身は当時としては長命で、72歳の天寿を全うしています。

程順則の墓
かなり新しいですね。
程順則には多くの面白い伝承があるので、いずれここでも紹介してみようと思っています。
民話・伝承には「親方話」という一ジャンルがあり、その中でも名護親方はよく登場する人物です。嫌味なほど「いい人」の話もあれば、さすが知恵者と思わせる話もあります。
同じ久米村出身の蔡温とはよく比較されたらしく、名護親方と具志頭親方の知恵比べ(たいてい名護親方が勝つ)や、2人の性格が対照的であったことを示す話なども複数残されています。

「程順則 名護寵文(ちょうぶん)之墓」
王朝時代すでに『総理唐栄司程公伝』『程公寵文伝』という伝記が書かれています。
王朝時代に伝記が書かれた人物というのはこの人ぐらいではないかと思うのですが、自叙伝を書いた蔡温と伝記を書かれた程順則というあたりも、2人の個性の違いを象徴しているような気がします。

「大正十二年五月建之 沖縄史蹟保存會 ■爵入江為守」
破損している■の箇所には「子」が入るでしょう。羽地朝秀の墓にも同じような石碑がありました。
この石碑は一度割れたものをコンクリで補強したみたいですね。
程順則が「名護親方」と呼ばれるようになったのは、名護間切の総地頭職に任じられた晩年に近い頃のことです。彼は人生のほとんどの期間を「古波蔵」の名字で過ごしました。
しかし現在では、「名護親方=程順則」というのが一般的です。
実は僕が近世琉球史に興味を持った最初のきっかけがこの人だったのですが、そのことはまた機会があれば書くことにします。
ここまでで旅行3日目の記録は終わり。
次回ようやく4日目に入ります。
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この記事へのコメント
こんちわ・・・シーサー山原といいます。只今、程順則先生の教えを名護の『市風』にしようと考えています・・・
いろんな形で商品を造って・・・町の無形地域資源として『心の醸成』につなげて行こうと考えています。
いつかどこかで会える事を願ってますが・・・次回名護いらしゃる機械はありませんか?
いろんな形で商品を造って・・・町の無形地域資源として『心の醸成』につなげて行こうと考えています。
いつかどこかで会える事を願ってますが・・・次回名護いらしゃる機械はありませんか?
Posted by シーサー山原 at 2007年07月27日 15:57
>シーサー山原さん
コメントありがとうございます。
ご返事が遅くなってしまい、大変失礼いたしました。
私としては、名護親方に関する資料がもっと手軽に閲覧または入手できるといいのにな、と思います^^;
名護市が発行している名護親方の資料集、3巻構成のはずが1巻で止まってしまっているのが残念です。
現在のところ、名護市を訪問させていただく予定はありません。申し訳ありません。
行きたい気持ちは常にあるのですが……^^;
コメントありがとうございます。
ご返事が遅くなってしまい、大変失礼いたしました。
私としては、名護親方に関する資料がもっと手軽に閲覧または入手できるといいのにな、と思います^^;
名護市が発行している名護親方の資料集、3巻構成のはずが1巻で止まってしまっているのが残念です。
現在のところ、名護市を訪問させていただく予定はありません。申し訳ありません。
行きたい気持ちは常にあるのですが……^^;
Posted by 茶太郎
at 2007年09月29日 07:33
at 2007年09月29日 07:33




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