2005年10月30日

蔡温語録・2 あの世などない!

「陰府はもとより実有にあらず。ただ釈氏、仮にこの説を設け、愚逆の人をして善を行い悪を絶たしむるに要するのみ」

(冥府はもともと実在するものではない。釈迦は仮にこのように説くことで、愚かで道理に従わぬ人々に善を行い悪を絶たせようとした、ただそれだけのことである)

――『簔翁片言』より



再び『簔翁片言』から取り上げます(やっと“簔”が出せた……)。
ごらんのとおり身もフタもないことを言っていますが、300年前にこんな考え方のできる人物がいたことに驚かされます。
これが蔡温の独創なのか、当時すでにこういう考え方が中国などでは広まっていたのか、この時代の思想史に明るくない僕にはよくわかりません。

上の言葉は簔翁と仏僧の対話の中で語られており、もちろん簔翁の台詞です。
ここでのやり取りには印象的な台詞が多いので、以下に簡単に辿ってみましょう。


仏僧「罪人でも一心に念仏を唱えれば、冥府から極楽に登り、あるいは富貴の家に生まれ変わることができる」(←浄土真宗ですかね、このお坊さん)
簔翁「ひどいものだ、一時の方便が後世になってこれほど深く信じられているとは」(←いきなり喧嘩売ってます)
仏僧「どういう意味か」
簔翁「念仏を唱えるのは煩悩を抑えるためだ。つまり精神修養の一助として行うのであって、極楽に行くためではない。[ここで上の言葉が入る] 悟りの世界では一切が“空”であるというが、ひとつの“空”に極楽も苦界もないはずである。
 もし人が死んで生まれ変わるのであれば、なぜ中国の聖人や天竺の仏教徒は一人も生まれ変わってこないのか。罪人でも念仏を唱えれば極楽に登れるというのなら、仏は念仏という賄賂を受けたか、あるいは罪人を偏愛したのであって、崇拝すべきものではないということになる。これが釈迦の本意であるはずがない」
仏僧「それでは祖先の祭祀を行うことも間違いになるではないか。仏教徒だけでなく、中国の聖人もこれを行うが、皆間違っているというのか」
簔翁「なぜ僧はこんなにも理解が悪いのか。人が禽獣と異なるゆえんは礼を行うにある。そのために昔の中国の聖人は礼を説き、それ以来、人々は礼をもって生活し、礼をもって祖先を祭るようになった。釈迦の礼法もその意味するところは同じである。冥府云々は関係ないのだ」



これは仏教徒でない蔡温だからこそ書ける文章ではあるでしょう。
ちなみに簔翁の言葉を聞いた僧は、「私は僧になって久しいが、やっとこれほど詳しい説明を聞くことができた」と喜んでいます。蔡温が実際に仏僧とこのような会話を交わしたことがあるのかどうか、確認のしようもありませんが、たぶん本物のお坊さんはこんなにあっさりとは納得しないでしょう(笑)

「釈氏の礼法も意味するところは同じ」などと容仏的な姿勢を見せているのは、例の福州で出会った「隠者」の影響があるようです。もっとも、琉球では久米村でさえ仏式の葬礼を行っていたので、全否定すると自己矛盾が生じてしまうという事情もあったのではないかと思います。

それにしても、「陰府」(=冥府)の存在を否定する蔡温が、後生(グソー)やニライカナイといったものをどう捉えていたのか、気になるところです。


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