2005年09月07日
蔡温略伝・3 【政治的栄達時代 29~53歳】(上)
帰国後の蔡温
治国の希望を胸に帰琉した蔡温が目にしたのは、悲惨な状況にある故国でした。琉球では前年、3000人以上が餓死した未曾有の大飢饉(己丑の大飢饉)が起こっており、首里城は失火が原因とされる火事のために焼失していました。在位41年の長きにわたった尚貞王も逝去し、尚益王の御世になっています。
帰国した蔡温は、山北(北山)へと騎馬で単身旅行に出ました。山北とは今で言う国頭、つまり沖縄本島北部です(山には“島”という意味もあります)。
大飢饉の翌年、しかも当時は道なき道を行くような山北の旅ですから、険しい道程だったはずです。琉球の国土を自身の眼で見ておくための旅行であったと思われますが、単なる詩作旅行とも言われています。
いずれにせよ、蔡温は政治家になってからも山北開発に強くこだわっており、治水工事や林政などの指導のために何度も自ら足を運んでいます。
『自叙伝』には山北旅行についての記述はありませんが、帰国してから長史(チャグシ、ちょうし)に任ぜられたことが書かれています。正確には帰国した翌年です。
長史とは久米村のみの役職で、位置付けは久米村総役(久米村の最高職。総理唐栄司とも)のひとつ下です。総役を補佐する役割で、定員は2名でした。
久米村は対中外交の専門機関でもありますから、長史は外務次官ぐらいに考えていいのかも知れません。冊封使録(冊封使が書いた琉球滞在記)を読むと、よく「長史の誰々が~」というくだりが出てきます。中華皇帝の代理人である冊封使と身近に接する機会が多いということは、それだけ重要な役目であったということでしょう。
当時の久米村総役は、父の蔡鐸でした。かつて父親を困らせた不良息子が、今やその父を補佐する役目に就いたことになります。
この人事には父親のコネも働いたかも知れませんが、決してそれだけのためではないでしょう。蔡温の学識や器量は、渡清前からある程度の注目を集め、期待されていたと思われます。彼が読書師匠・講談師匠を務めていたことは前述しましたが、これも各定員1名の出世ルートのひとつだったようで、簡単になれたわけではありません。
国師蔡温
1711(康熙50、正徳元)年、尚益王の世子である尚敬(当時12歳)が、2、3年後に薩摩に赴くという予定が立てられます。王世子は15歳頃になると、薩摩に1年ほど滞在するのが島津侵入以来の慣わしでした。
薩摩行きに備えて、尚敬には学問および生活全般にわたる指導のための師匠がつけられることになります。いわば琉球を代表して薩摩に行くわけですから、それなりの学識や作法を身につけていないと、王国のプライドにも関わったのでしょう(日本の影響を受ける前に琉球で教育を、という思惑もあったかも?)。
当時、師匠役(侍講)は学問の中心地でもあった久米村から選任されていました。ここで尚敬の師匠役に抜擢されたのが、他でもない蔡温でした。後になってみれば、これほど琉球王国の運命に多大な影響を与えた人事もなかったでしょう。
久米村には程順則や蔡文溥(さい・ぶんぷ)など、学問に秀でた人材は他にもいましたが、なぜ蔡温が選ばれたのかはよくわかりません。ただ、久米村で先生をしていたぐらいですから、特に不思議なことでもなかったのではないか、とは思います。
久米村の有力者たちが蔡温を推薦したとすると、若き蔡温は久米村の期待の星と見なされていたのかも知れません。またこれは俗説に近いように思えますが、尚敬が大変なわんぱく少年であったために、強烈な個性を持った蔡温が師匠役に選ばれたとも言われているようです。
この役目を拝命したためか、蔡温は長史を7ヶ月余りで辞任しています。『蔡氏家譜』(家系の記録)には病のためと書かれていますが、このあたりの事情はよくわかりません。父親と反りが合わなかったのが本当の理由だったりすると、それはそれで面白いんですが……(笑)
ともかく、こうして師弟関係となった蔡温と尚敬は、その生涯を通じて強い絆で結ばれていくことになります。後の名君・尚敬は12歳、後の大宰相・蔡温は31歳でした。
尚敬の薩摩行きに備えての師匠となった蔡温でしたが、翌年になって事情が変わります。尚敬の父である尚益王が在位わずか3年、35歳の若さで死去したのです。世子である尚敬は新王として即位することになるため、当然、薩摩行きは中止となりました。
蔡温は薩摩行きを結構楽しみにしていたらしく、この時期に作ったと思われる日本の歴史や風景にちなんだ漢詩などが残っています。しかし結局、彼は生涯に一度も日本の土を踏むことはありませんでした。
13歳の新国王が即位したのは、1712(康熙50、正徳2)年のことでした。尚敬王即位に伴い、蔡温はそのまま国王付きの師匠となります。いわゆる国師です。
ところで、国師職が置かれたのは蔡温の時のみであったとよく言われますが、これはどうも正確ではないようです。他にも国王・世子の師匠となった人物はいて、たとえば程順則などは侍講という職名で、尚純(尚貞王の子、王世子の時に死去)、尚益に教えています。この職名は時代によって変化したので、「国師」という職名が蔡温の時だけだった、という意味なのかも知れません。
翌年、蔡温は勝連間切(まぎり……ほぼ現在の市町村単位)神谷の地頭職に任ぜられ、琉球名を神谷親雲上(かみやペーチン)文若と称することになります。久米村からの通勤が不便なため、首里赤平に邸宅を賜って転居したのもこの頃です。尚敬王はこの後、何か相談事があるたびに蔡温宅を訪れることになります。
『自叙伝』によると、その頃の蔡温は中城御殿に出勤していたようです。中城御殿は王世子の居館ですが、首里城はまだ王が居住するのに十分なほど再建されていなかったのでしょうか。このあたり、『球陽』や家譜の記述と矛盾があるのですが、よくわかりません。
当時の中城御殿は現在の首里高校敷地内にあったということなので、蔡温のおおよその通勤ルートがわかりそうですね。再建工事中の首里城を左手に仰ぎ、「ああ、随分できてきたなあ」などと思いながらの出勤だったのかも知れません。
蔡温が首里赤平に転居したのと同年、父・蔡鐸が隠居し、兄の蔡淵が志多伯地頭職を継ぎました。子供の頃に決定されていたこととはいえ、本当に庶子である兄が家督を継いだのでした。蔡温は結局、蔡氏具志頭家の祖として分家することになります。
再びの渡清
西暦1716(康熙55年、享保元)年、35歳の蔡温は、尚敬王の冊封(王に任命すること)を清に要請するための請封および進貢副使として、北京に赴くことになります。それに先立ち、蔡温は西原間切末吉の地頭職に任ぜられ、末吉親雲上を称しています。以前にも書きましたが、領地が変わるたびに名字も変わるのです。
蔡温の生涯2度目、そして最後になる渡清でしたが、海路で暴風に遭い、命からがら久米島に漂着するという苦難の道中となります。
ようやく到着した北京でも、さらなる難題が待ち受けていました。康熙帝の母つまり皇太后が逝去したため、北京の役人がそちらの用事に忙殺され、冊封どころではない状態だったのです。
何とか冊封を担当する役人をつかまえたところ、今度は、冊封要請が遅れた理由について問い詰められてしまいます。というのも、先王・尚益が冊封を受けることなく早世しているうえ、蔡温が琉球を出発した時には、すでに尚敬即位後4年が経過していたのです。
蔡温は次のように弁明しました。
先々王・尚貞の死から3年間は喪に服していたため、冊封要請ができなかった。喪が明けた年に先王・尚益も逝去したので、さらに3年間、喪に服した。尚益王の喪が明けた年に冊封を要請しようとしたが、冊封要請は2年に1回の進貢年に行うべきであるところ、その年はそれに当たらなかったため、さらに1年延期することになったのである――と。
清国側は納得して、冊封使を琉球に送ることを承認しました。
この時の交渉で、蔡温は筆談を用いています。唐語(中国語)の会話は不得手なため、というのが理由でしたが、まず嘘でしょう(いや、蔡温なら意外とあり得そうな気もしますが……)。筆談であれば証拠が残りますし、感情的な議論にもなりにくく、さらにじっくり考えて返事をするための時間も稼げる、などの計算がおそらくあったと思われます。中国側との交渉に際しての筆談は、この後も蔡温の得意技(?)となります。
こうして蔡温は、無事に役目を果たして帰国しました。トラブル続きの渡清は、足掛け3年もの期間に及んでいます。
冊封使来琉
蔡温が帰国した翌1719(康熙56、享保2)年6月、御冠船(ウカンシン=冊封使を乗せた船)が那覇港にやってきます。琉球王国の一大イベントの始まりです。
冊封正使は海宝(かい・ほう)、副使は徐葆光(じょ・ほこう)。副使の徐葆光は、『中山伝信録』という歴代冊封使録の白眉とされる著作を残したことで有名です。
冊封使の最も重要な仕事は、先王の諭祭(ゆさい=葬儀)と新王の冊封です。儀式はつつがなく終了し、20歳の尚敬は正式に琉球国中山王として清帝から冊封されました。
琉球国中山王というのは、琉球国王の正式名です。琉球が南山・中山・北山に分かれていた「三山時代」の名残で、『中山世譜』などというように、中山といえば琉球王国そのものを指すことになります。ただ、冊封使はいつの頃からか勘違いして、北山が奄美諸島、中山が沖縄本島と周辺の島々、南山が宮古・八重山諸島と思い込んでいた時期もあったようです。
ちなみに冊封使が来琉している間、薩摩の役人は彼らに気づかれないよう、浦添の城間に姿を隠していました(今でも地名が残ってますよね)。進貢貿易の都合上、薩摩の琉球支配を中国側に隠していたことは先述のとおりです。
もちろん中国側はそのことを知っていて知らぬふりをしていたのですが、この時の来琉時に、副使の徐葆光がそのことで嫌味を言ったというエピソードが残っています。
さて、冊封の儀式自体は無事に終わり、蔡温は紫金大夫(しきんたいふ……通常、久米村人としては最高の位階。紫冠ともいう)に昇格します。これにより称号は親方(ウェーカタ)となり、末吉親方文若を称することになります。
この末吉親方こと蔡温が最初に直面した難題が、評価(ハンガー)事件でした。
冊封使は多くの船員(この時は600人以上)を引き連れて来琉しますが、彼らは中国からさまざまな品物を持ってきて、琉球王府に買い取ってもらうことで利益を得ていました。その買取額を決めることを評価と言います。まあ、鑑定と言えばわかりやすいですね。
この時、中国側が琉球に要求した買取総額は、銀2000貫目。それに対して、慢性的な財政難にあえぐ琉球が用意できたのは、わずか4分の1の銀500貫目でした。当然これは大問題に発展します。
冊封使と中国人船員たちは、「琉球は王国なのだから、銀2000貫ぐらい出せるだろう」と抗議します。船員たちにしてみれば、この利益が目的で危険な海を渡ったのです。簡単に納得するわけにはいきませんでした。
対清折衝を担う久米村の高官たちは困り果てます。琉球随一の学者であり、久米村総役および三司官座敷(三司官待遇)に昇っていた程順則の手にも負えません。誰もがお手上げ状態になった時、騒動を解決できる唯一の人物として、蔡温に白羽の矢が立てられます。
(蔡温略伝・4につづく)
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