2008年06月22日
『独物語』現代語訳・19
一、
農民は農業の勤めが第一である。
しかし以前から、農民にさまざまな雑物(ぞうもの)*を納めさせたうえ、夫遣い(労役)らしきことをさせることがあり、農民は農業をする暇がなく、田畑の仕事が思うようにいかなくなっている。
そのため、雑物ならびに夫遣いの調査を厳しく申し渡したかったのだが、御料理座をはじめ諸座諸蔵の御用物(官有品)の調査が済んでいないため、雑物・夫遣いの調査は先延ばしになっている。
* 雑物 : 穀物以外の、野菜・卵・薪木などの食料・雑貨のこと(『沖縄大百科事典』)
【メモ】
このあたりから、未解決の懸案事項が挙げられていきます。『独物語』を通して、蔡温が後輩たちにバトンを託そうとしたことがわかります。
もっとも、それらをいちいち文書で伝えようとすること自体、じつは後輩たちの能力をあまり信用していないからとも受け取れるわけですが……。
ここでは一応、後輩たちを心配するあまり、ということにしておきましょう。
さて、この項目では、農村における役人の不正を問題視しています。
地頭あるいは地方役人が、農民から租税を過剰に徴収しているため、農村が疲弊しているということです。これを徹底的に調査したかったのに、と蔡温は悔やんでいます。
「雑物」も「夫遣い」も租税の一種です。雑物は上記の注釈のとおり、夫遣いは労働を提供する「夫役(ぶやく)」の一種ということになるようです。
当時の税制では、夫役をさせない場合、その分を物納で代替することになっていました。
金銭で代替する場合は「夫役銭」といいますが、農村では貨幣が流通していなかったため、実際には「雑物」を納めさせることが多かったようです。
それを踏まえて、上記の蔡温の文章をもう一度見てみましょう。次のような解釈ができるはずです。
「雑物を徴収したら夫役をやらせてはいけないのに、雑物を徴収したうえに夫役をやらせる役人がいる。そのために農村が疲弊している!」
じつは、これとほとんど同じ内容の法令を、1667年に羽地朝秀が出しているようです。80年以上にわたる懸案事項だったということでしょうか。
後半部分、「御料理座はじめ諸座諸蔵の御用物(官有品)の調査」の内容は、横流しの摘発と思われます。
「諸座諸蔵」というのは、祖税を徴収する際に「心付け」(手間賃みたいなもの)を受け取る役得を持った役人が勤務している役所で、不正に多くの「手間賃」を徴収して横流ししていた役人がいたのではないでしょうか。
こちらの解決を農村よりも優先したのは、構造的な問題は上層部から改善しなければならないという考え方だったのかも知れません。
……以上、今回の参考文献はすべて『沖縄大百科事典』です。いや~、やっぱり便利だわ(笑)
農民は農業の勤めが第一である。
しかし以前から、農民にさまざまな雑物(ぞうもの)*を納めさせたうえ、夫遣い(労役)らしきことをさせることがあり、農民は農業をする暇がなく、田畑の仕事が思うようにいかなくなっている。
そのため、雑物ならびに夫遣いの調査を厳しく申し渡したかったのだが、御料理座をはじめ諸座諸蔵の御用物(官有品)の調査が済んでいないため、雑物・夫遣いの調査は先延ばしになっている。
* 雑物 : 穀物以外の、野菜・卵・薪木などの食料・雑貨のこと(『沖縄大百科事典』)
【メモ】
このあたりから、未解決の懸案事項が挙げられていきます。『独物語』を通して、蔡温が後輩たちにバトンを託そうとしたことがわかります。
もっとも、それらをいちいち文書で伝えようとすること自体、じつは後輩たちの能力をあまり信用していないからとも受け取れるわけですが……。
ここでは一応、後輩たちを心配するあまり、ということにしておきましょう。
さて、この項目では、農村における役人の不正を問題視しています。
地頭あるいは地方役人が、農民から租税を過剰に徴収しているため、農村が疲弊しているということです。これを徹底的に調査したかったのに、と蔡温は悔やんでいます。
「雑物」も「夫遣い」も租税の一種です。雑物は上記の注釈のとおり、夫遣いは労働を提供する「夫役(ぶやく)」の一種ということになるようです。
当時の税制では、夫役をさせない場合、その分を物納で代替することになっていました。
金銭で代替する場合は「夫役銭」といいますが、農村では貨幣が流通していなかったため、実際には「雑物」を納めさせることが多かったようです。
それを踏まえて、上記の蔡温の文章をもう一度見てみましょう。次のような解釈ができるはずです。
「雑物を徴収したら夫役をやらせてはいけないのに、雑物を徴収したうえに夫役をやらせる役人がいる。そのために農村が疲弊している!」
じつは、これとほとんど同じ内容の法令を、1667年に羽地朝秀が出しているようです。80年以上にわたる懸案事項だったということでしょうか。
後半部分、「御料理座はじめ諸座諸蔵の御用物(官有品)の調査」の内容は、横流しの摘発と思われます。
「諸座諸蔵」というのは、祖税を徴収する際に「心付け」(手間賃みたいなもの)を受け取る役得を持った役人が勤務している役所で、不正に多くの「手間賃」を徴収して横流ししていた役人がいたのではないでしょうか。
こちらの解決を農村よりも優先したのは、構造的な問題は上層部から改善しなければならないという考え方だったのかも知れません。
……以上、今回の参考文献はすべて『沖縄大百科事典』です。いや~、やっぱり便利だわ(笑)
2008年06月01日
『独物語』現代語訳・18
一、
傾域(遊郭)というものは、その行状が人倫の妨げとなるので、御政道のためには至極不都合なもののように見える。しかし、那覇は諸方からの船が集まる場所なので、傾域を設置しなければ、どのような障りが生じないともかぎらない。
このように考えると、前代から那覇に傾域を設置していたことは、結局のところ取り締まり向きに役立っているのである。
このこともよくよく思慮しなければならないところである。
【メモ】
那覇には、辻・仲島・渡地の3ヶ所に王府公認の遊郭がありました。
古地図(明治初年の那覇市街図)を見るとわかりますが、この3ヶ所はすべて海辺にあります。
王府に公認されてから遊郭ができたのか、元々この場所にあった遊郭を王府が公認したのかはわかりませんが、とりあえずここでの蔡温は、船乗りたちの旅のストレスを水際で解消させ、内陸に住む人々を守るという発想に立っています。古今東西、人間は似たようなことを考えるものです。
3つの遊郭のうち、地名が現在まで残っているのは辻だけです。
仲島は現在の那覇バスターミナル付近にあり、当時はそこまで海岸線が迫っていました。「仲島の大石」までが海岸線だったようです。
渡地は現在の通堂町にあり、長崎の出島のように、橋で渡る小島だったようです(だから「渡地」なのでしょう)。朝貢品の硫黄を貯蔵する硫黄グスクがあり、最近の発掘調査では塩田跡も確認されています。
明治初年の那覇市街図を見ていて、ちょっと気づいたことがありました。
3つの遊郭のうち、仲島・渡地は那覇港に面していますが、辻は外海に面しており、しかも丘陵(現在の三文殊公園か)や小さな崖によって、海との接触を遮られているように見えます。むしろ奥まった場所にある印象です。
辻遊郭は3つの遊郭の中で最も格式が高かったといわれますが、立地条件から見ても、客層が他の二者とは違っただろうな、と思った次第です。
傾域(遊郭)というものは、その行状が人倫の妨げとなるので、御政道のためには至極不都合なもののように見える。しかし、那覇は諸方からの船が集まる場所なので、傾域を設置しなければ、どのような障りが生じないともかぎらない。
このように考えると、前代から那覇に傾域を設置していたことは、結局のところ取り締まり向きに役立っているのである。
このこともよくよく思慮しなければならないところである。
【メモ】
那覇には、辻・仲島・渡地の3ヶ所に王府公認の遊郭がありました。
古地図(明治初年の那覇市街図)を見るとわかりますが、この3ヶ所はすべて海辺にあります。
王府に公認されてから遊郭ができたのか、元々この場所にあった遊郭を王府が公認したのかはわかりませんが、とりあえずここでの蔡温は、船乗りたちの旅のストレスを水際で解消させ、内陸に住む人々を守るという発想に立っています。古今東西、人間は似たようなことを考えるものです。
3つの遊郭のうち、地名が現在まで残っているのは辻だけです。
仲島は現在の那覇バスターミナル付近にあり、当時はそこまで海岸線が迫っていました。「仲島の大石」までが海岸線だったようです。
渡地は現在の通堂町にあり、長崎の出島のように、橋で渡る小島だったようです(だから「渡地」なのでしょう)。朝貢品の硫黄を貯蔵する硫黄グスクがあり、最近の発掘調査では塩田跡も確認されています。
明治初年の那覇市街図を見ていて、ちょっと気づいたことがありました。
3つの遊郭のうち、仲島・渡地は那覇港に面していますが、辻は外海に面しており、しかも丘陵(現在の三文殊公園か)や小さな崖によって、海との接触を遮られているように見えます。むしろ奥まった場所にある印象です。
辻遊郭は3つの遊郭の中で最も格式が高かったといわれますが、立地条件から見ても、客層が他の二者とは違っただろうな、と思った次第です。
2008年05月07日
イヌマキは残った
前々回にスギの木の記事を書いた余勢を駆って、今回も王府の御用木の記事を書きたいと思います。
『林政八書』を見ていると、近世の琉球において、他の御用木とは別格扱いとも言えるほどに手厚く保護された木があることがわかります。
イヌマキです。方言ではチャーギと呼ぶそうですね。
スギと違い、イヌマキは現在の沖縄でもよく見られると思います。
イヌマキの分布は本土の関東地方以南で、庭木や防風林に使用されることが多いようです。
御用木の中の御用木、キング・オブ・ゴヨーボクの地位をイヌマキが得たのはなぜでしょうか。
それは、イヌマキが首里城の建材として使用されたためです。
首里城は何度も修改築を繰り返すことで維持されていたため、そのための材木は常に用意しておく必要がありました。
強い風雨にさらされる沖縄の風土では、「堅い」「湿気に強い」「シロアリに強い」などの特性を持つイヌマキが非常に重宝されたのです。また、巨大な首里城の建材として使用できるまでには、特に長い年月をかけて育成する必要があったことも、別格扱いの理由でしょう。
イヌマキが使用される以前、首里城はカシの木でできており、腐食しやすいという問題がありました。
『林政八書』には以下のような記述があります。
首里城の正殿はこれまでカシの木を用いて普請をしていたので腐れ易く、わずか20年あまりで改築することになっている。この短い間に巨額の国費を支出するのでは財政の困難を来すことは勿論、このために諸士および一般民まで経済的に困ることになることは周知のことである。これから上記の御用木は保有のよいイヌマキと定める。よって、イヌマキを広く植樹して繁茂をすすめること。
(中須賀常雄 編『意訳 林政八書』より「杣山法式仕次」第二項)
「杣山法式仕次」が書かれたのは1747年です。首里城の建材にイヌマキを使用することを定めるにあたっては、やはり合理主義者たる蔡温の意向が強く働いたのではないかと思います。
(ちなみに、同じく『林政八書』の「杣山惣計条々」第4項では、イヌマキ以前の建材は「雑木」だったとされています)
生育の良好なイヌマキは「御用木帳」に登録され、登録外のイヌマキであっても、伐採には山奉行の承認が必要とされました。スギも同様の扱いですが、それほど厳格に管理されていたということですね(前掲書より「山奉行所公事帳」第11項)。
こうして大切に育てられたイヌマキは、首里城の修改築が必要になったとき、各地(特に国頭)から首里へと運ばれたのでしょう。
では、復元された現在の首里城正殿にはイヌマキが使用されているのでしょうか。
『首里城ハンドブック』(首里城研究グループ)によると、イヌマキが十分に調達できなかったため、柱や梁にはタイワンヒノキを使用し、外壁や外部建具に九州産のイヌマキを使用しているそうです。ヒノキも湿気や虫に強い木で、奈良の法隆寺や正倉院の建材ですね。
とはいえ、やはり復元から20年近くが経つ今、多少ガタが来ているようです。
【首里城公園HP新着情報 「正殿の塗装について」】
また、「首里城公園友の会」では、イヌマキの植樹も行っているようです。
【首里城公園友の会について】
数十年後には、こうして植樹されたイヌマキが首里城の改築に使用されることになるのでしょう。
以下は、ご参考までに and 脱線気味に。
御用木の運搬に動員された人夫たちが歌ったという、「国頭(くんじゃん)サバクイ」という民謡がありますね。いわゆる「木遣り歌」です。
「イヒヒヒ、アハハハ」という、笑い声みたいなお囃子が入っている変わった歌です(労働の辛さを忘れるための笑いなのだとか)。
この「国頭サバクイ」、最近は沖縄のアーティストが現代風にアレンジして歌うことも多いようで、僕の大好きなcoi-naも歌ってます(^^*)ステキー
(ここから完全に脱線)coi-naの「国頭サバクイ」は、彼女たちの初のワンマンライブを収めたDVD(4月25日発売)に収録されています。
先日、琉球新報でも紹介されたようですね。
【琉球新報 2008年5月1日】
↓DVDはここらへんで買えますわよ
【高良レコード】
【HMV】
↓開けるとこんなです。

フッフッフ、またもやサイン入りです。
先日、関東ライブを観にいったときに先行販売で購入したのですよ~( ̄  ̄ )♪
ちなみに今日(もう昨日ですが)は、神奈川県川崎市の「はいさいフェスタ」にcoi-naが出演していたので、やはり観にいったのですよ~(書いたことあると思いますが、私は川崎市のおとなりの横浜市在住です)。
脱線を戻さないまま、今回はこれにてm(_ _)m
『林政八書』を見ていると、近世の琉球において、他の御用木とは別格扱いとも言えるほどに手厚く保護された木があることがわかります。
イヌマキです。方言ではチャーギと呼ぶそうですね。
スギと違い、イヌマキは現在の沖縄でもよく見られると思います。
イヌマキの分布は本土の関東地方以南で、庭木や防風林に使用されることが多いようです。
御用木の中の御用木、キング・オブ・ゴヨーボクの地位をイヌマキが得たのはなぜでしょうか。
それは、イヌマキが首里城の建材として使用されたためです。
首里城は何度も修改築を繰り返すことで維持されていたため、そのための材木は常に用意しておく必要がありました。
強い風雨にさらされる沖縄の風土では、「堅い」「湿気に強い」「シロアリに強い」などの特性を持つイヌマキが非常に重宝されたのです。また、巨大な首里城の建材として使用できるまでには、特に長い年月をかけて育成する必要があったことも、別格扱いの理由でしょう。
イヌマキが使用される以前、首里城はカシの木でできており、腐食しやすいという問題がありました。
『林政八書』には以下のような記述があります。
首里城の正殿はこれまでカシの木を用いて普請をしていたので腐れ易く、わずか20年あまりで改築することになっている。この短い間に巨額の国費を支出するのでは財政の困難を来すことは勿論、このために諸士および一般民まで経済的に困ることになることは周知のことである。これから上記の御用木は保有のよいイヌマキと定める。よって、イヌマキを広く植樹して繁茂をすすめること。
(中須賀常雄 編『意訳 林政八書』より「杣山法式仕次」第二項)
「杣山法式仕次」が書かれたのは1747年です。首里城の建材にイヌマキを使用することを定めるにあたっては、やはり合理主義者たる蔡温の意向が強く働いたのではないかと思います。
(ちなみに、同じく『林政八書』の「杣山惣計条々」第4項では、イヌマキ以前の建材は「雑木」だったとされています)
生育の良好なイヌマキは「御用木帳」に登録され、登録外のイヌマキであっても、伐採には山奉行の承認が必要とされました。スギも同様の扱いですが、それほど厳格に管理されていたということですね(前掲書より「山奉行所公事帳」第11項)。
こうして大切に育てられたイヌマキは、首里城の修改築が必要になったとき、各地(特に国頭)から首里へと運ばれたのでしょう。
では、復元された現在の首里城正殿にはイヌマキが使用されているのでしょうか。
『首里城ハンドブック』(首里城研究グループ)によると、イヌマキが十分に調達できなかったため、柱や梁にはタイワンヒノキを使用し、外壁や外部建具に九州産のイヌマキを使用しているそうです。ヒノキも湿気や虫に強い木で、奈良の法隆寺や正倉院の建材ですね。
とはいえ、やはり復元から20年近くが経つ今、多少ガタが来ているようです。
【首里城公園HP新着情報 「正殿の塗装について」】
また、「首里城公園友の会」では、イヌマキの植樹も行っているようです。
【首里城公園友の会について】
数十年後には、こうして植樹されたイヌマキが首里城の改築に使用されることになるのでしょう。
以下は、ご参考までに and 脱線気味に。
御用木の運搬に動員された人夫たちが歌ったという、「国頭(くんじゃん)サバクイ」という民謡がありますね。いわゆる「木遣り歌」です。
「イヒヒヒ、アハハハ」という、笑い声みたいなお囃子が入っている変わった歌です(労働の辛さを忘れるための笑いなのだとか)。
この「国頭サバクイ」、最近は沖縄のアーティストが現代風にアレンジして歌うことも多いようで、僕の大好きなcoi-naも歌ってます(^^*)ステキー
(ここから完全に脱線)coi-naの「国頭サバクイ」は、彼女たちの初のワンマンライブを収めたDVD(4月25日発売)に収録されています。
先日、琉球新報でも紹介されたようですね。
【琉球新報 2008年5月1日】
↓DVDはここらへんで買えますわよ
【高良レコード】
【HMV】
↓開けるとこんなです。
フッフッフ、またもやサイン入りです。
先日、関東ライブを観にいったときに先行販売で購入したのですよ~( ̄  ̄ )♪
ちなみに今日(もう昨日ですが)は、神奈川県川崎市の「はいさいフェスタ」にcoi-naが出演していたので、やはり観にいったのですよ~(書いたことあると思いますが、私は川崎市のおとなりの横浜市在住です)。
脱線を戻さないまま、今回はこれにてm(_ _)m
2008年04月28日
紹介記事「蔡温と国土経営」
コメント欄でとらひこさんからもご紹介いただきましたが、ネットで蔡温に関する非常におもしろい連載記事を見つけました。
『しまたてぃ』という建設情報誌の「蔡温と国土経営」というシリーズです。
PDFで無料公開されています。
『しまたてぃ』
http://www.okikosai.or.jp/shimatatei/top.htm
連載は2006年1月から現在までの2年間にわたっています(トップページ左のバックナンバーをクリックしてお探しください)。
最新号では連載終了記念の公開座談会の前半が掲載されているので、次回でシリーズが完結すると思われます。
建設情報誌だけあって、論題の中心は土木政策や林政ですが、その枠を超えて、蔡温政治の全体像や蔡温の人物像までがひととおり理解できる内容になっています。
史学誌ではないことが良い方向に働いているようで、蔡温のことをよく知らない人にも読みやすいよう配慮されていると感じました。
各回のタイトルと執筆者は次のとおり。
第1回 総説・蔡温と国土経営……………高良 倉吉
第2回 蔡温の経営手腕……………………高良 倉吉
第3回 蔡温の海事政策
~島嶼海域史の視点から~………真栄平 房昭
第4回 都市問題への対処…………………田名 真之
第5回 杣山政策の戦略……………………仲間 勇栄
閑話休題 蔡温原像
~虚惑と実惑の往還………………當山 忠
第6回 風水見・蔡温
~風水と技術~……………………都築 晶子
最終回 「琉球ビジョン」と蔡温…………グレゴリー・スミッツ
公開座談会 出席者:都築 晶子、真栄平 房昭、仲間 勇栄
コーディネーター:田名 真之
失礼な言い方になりますが、「本当に建設情報誌なのか?」と思うぐらい豪華なメンバーと興味深いテーマです。
歴史学者だけでなく農学者も執筆陣に加わっているのが面白いですね(第5回)。
蔡温の林政は、やはり現在の視点からも参考になるものがあるようです。
ちなみに、最終回の執筆者であるグレゴリー・スミッツ氏は、渡辺美季氏のHPで「アメリカ唯一の琉球史研究者」と紹介されています。
http://www.geocities.jp/ryukyu_history/useful.html
スミッツ氏は「EAH(East Asian History)」というWebサイトで、なんと蔡温の『自叙伝』と『平時家内物語』の英語訳を公開なさっています。
http://east-asian-history.net/Ryukyu/Saion/index.htm
日本語ネイティブの僕でも難しい候文を英語訳って……。
『平時家内物語』は、有名な『御教条』の元ネタになっている蔡温の著作です。僕の知るかぎり、日本語の現代語訳はまだ出版・公開されていないはずです。英語を読める人であれば、原文よりもスミッツ氏の英語訳を読んだほうがわかりやすいかも知れません。
なお、『自叙伝』の日本語による現代語訳は公開されています。このブログで(←物を投げないでください)。
「EAH」を見ると、『独物語』の英語訳も遠からずアップされそうな気配ですね。ま、負けるもんかっ。
やっぱりプロの仕事は違うよな、と軽く落ち込みつつ(笑)通勤電車で「蔡温と国土経営」を読んでいる今日この頃です。
『しまたてぃ』という建設情報誌の「蔡温と国土経営」というシリーズです。
PDFで無料公開されています。
『しまたてぃ』
http://www.okikosai.or.jp/shimatatei/top.htm
連載は2006年1月から現在までの2年間にわたっています(トップページ左のバックナンバーをクリックしてお探しください)。
最新号では連載終了記念の公開座談会の前半が掲載されているので、次回でシリーズが完結すると思われます。
建設情報誌だけあって、論題の中心は土木政策や林政ですが、その枠を超えて、蔡温政治の全体像や蔡温の人物像までがひととおり理解できる内容になっています。
史学誌ではないことが良い方向に働いているようで、蔡温のことをよく知らない人にも読みやすいよう配慮されていると感じました。
各回のタイトルと執筆者は次のとおり。
第1回 総説・蔡温と国土経営……………高良 倉吉
第2回 蔡温の経営手腕……………………高良 倉吉
第3回 蔡温の海事政策
~島嶼海域史の視点から~………真栄平 房昭
第4回 都市問題への対処…………………田名 真之
第5回 杣山政策の戦略……………………仲間 勇栄
閑話休題 蔡温原像
~虚惑と実惑の往還………………當山 忠
第6回 風水見・蔡温
~風水と技術~……………………都築 晶子
最終回 「琉球ビジョン」と蔡温…………グレゴリー・スミッツ
公開座談会 出席者:都築 晶子、真栄平 房昭、仲間 勇栄
コーディネーター:田名 真之
失礼な言い方になりますが、「本当に建設情報誌なのか?」と思うぐらい豪華なメンバーと興味深いテーマです。
歴史学者だけでなく農学者も執筆陣に加わっているのが面白いですね(第5回)。
蔡温の林政は、やはり現在の視点からも参考になるものがあるようです。
ちなみに、最終回の執筆者であるグレゴリー・スミッツ氏は、渡辺美季氏のHPで「アメリカ唯一の琉球史研究者」と紹介されています。
http://www.geocities.jp/ryukyu_history/useful.html
スミッツ氏は「EAH(East Asian History)」というWebサイトで、なんと蔡温の『自叙伝』と『平時家内物語』の英語訳を公開なさっています。
http://east-asian-history.net/Ryukyu/Saion/index.htm
日本語ネイティブの僕でも難しい候文を英語訳って……。
『平時家内物語』は、有名な『御教条』の元ネタになっている蔡温の著作です。僕の知るかぎり、日本語の現代語訳はまだ出版・公開されていないはずです。英語を読める人であれば、原文よりもスミッツ氏の英語訳を読んだほうがわかりやすいかも知れません。
なお、『自叙伝』の日本語による現代語訳は公開されています。このブログで(←物を投げないでください)。
「EAH」を見ると、『独物語』の英語訳も遠からずアップされそうな気配ですね。ま、負けるもんかっ。
やっぱりプロの仕事は違うよな、と軽く落ち込みつつ(笑)通勤電車で「蔡温と国土経営」を読んでいる今日この頃です。
2008年04月14日
杉の木は残らなかった?
沖縄には花粉症が無いといふ
思わず詩人になってしまうぐらい、この時節は沖縄が羨ましくなります。悪天候のせいか、ここ1週間ほどは楽になってきましたが。
花粉症は本当につらいものです。
ご存知のとおり、花粉症の原因となるのは主にスギ花粉です。
沖縄にスギ花粉症がないのは、スギの木が少ないからです。
と、ここでひとつの疑問が。
というのも、琉球王府はスギを育成していたはずだからです。
王府の森林行政を記した『林政八書』を見てみましょう(中須賀常雄・編著『意訳 林政八書』)。
「八書」のうち一書は明治期のものですが、他の七書は蔡温時代のもので、三司官、つまり蔡温の承認も得たうえで作成されたものです。
『林政八書』の一書である『樹木播植方法(じゅもくはしょくほうほう)』(1747年)では、第一項でいきなりスギの植樹方法を説明しています。
そこで説明されているスギの植樹方法は2種類。
ひとつは、採取したスギの枝(挿し穂)を土に植える方法。もうひとつは、スギの実を土に植える方法です。
詳細は省きますが、まるで園芸書のように実用的です。挿し穂のイラストまで入っています。
『樹木播植方法』と同年同月に発布された『杣山法式仕次(そまやまほうしきしつぎ)』第11項には、当時の琉球にスギが存在していなかったことが記されています。
いわく、キリやヒノキなどと並んでスギは「極めて大切な用木であるが、当琉球にはなくすべて他国より輸入している。今後これらを輸入しなくてもよいように速やかに植栽し造林しなければならない」。
上記の二書が書かれた1747(乾隆12)年といえば、蔡温が中頭・国頭の山林事業を調査監督に赴いた年でもあります。
二書はこの調査中に書かれており、『樹木播植方法』には蔡温に同道した源河親雲上と安里親雲上(蔡温の家譜では安里『親方』)の署名がありますから、この調査と上記二書には密接なかかわりがあると見てよいでしょう。
ちなみに、家譜によればこのとき蔡温は「辺戸村」まで到達しているので、ほとんど沖縄本島の最北端まで行っています。有名な「蔡温松」はこの頃に植えられたのかも知れません。
薩摩藩主・島津吉貫の死去の報を受けていったん首里に帰った後、数日のうちに再び国頭に赴いています。
じつにエネルギッシュな蔡温ですが、このときなんと数え年で66歳です。
さて、王府は何のためにスギの育成を奨励したのでしょうか。
同じく『林政八書』の一書である『山奉行所公事帳』(1751年)第11項によれば、首里城正殿の建材にするためであったとのことです。
「前にも指示したように首里城の正殿の改築には杦(『木へん』に『久』でスギと読む)および樫木(イヌマキ)を用材とすれば数十百年も保持されるから、これら良木を広く植栽すること」(括弧内は引用者)
「前にも指示したように」とありますが、その「指示」は『林政八書』には見当たりません。
首里城正殿の建材にイヌマキを使用せよとの記述はありますが、スギを使用せよとの記述は、上記の引用箇所以外に見当たらないのです。
首里城正殿の建材にスギを使用することは、実際にあったのでしょうか。
今のところ、(私には)これ以上のことはわかりません。
最後に、『沖縄大百科事典』で「スギ」の項目を調べてみると、こんな記述がありました。
「沖縄でも古くから植栽され、スギの適地を〈スギ敷〉と称してきた。自生のスギがあるといわれるが明確でない」
現在の状況を見るかぎり、王府の努力も虚しく、スギは沖縄に定着しなかったということでしょうか。
当時はスギ花粉症など想像もできなかったと思いますが、結果的にはスギの植林が成功しなくてよかったのかも知れません。
(記事タイトルは『樅の木は残った』(山本周五郎)のもじりです。読んだことないけど)
思わず詩人になってしまうぐらい、この時節は沖縄が羨ましくなります。悪天候のせいか、ここ1週間ほどは楽になってきましたが。
花粉症は本当につらいものです。
ご存知のとおり、花粉症の原因となるのは主にスギ花粉です。
沖縄にスギ花粉症がないのは、スギの木が少ないからです。
と、ここでひとつの疑問が。
というのも、琉球王府はスギを育成していたはずだからです。
王府の森林行政を記した『林政八書』を見てみましょう(中須賀常雄・編著『意訳 林政八書』)。
「八書」のうち一書は明治期のものですが、他の七書は蔡温時代のもので、三司官、つまり蔡温の承認も得たうえで作成されたものです。
『林政八書』の一書である『樹木播植方法(じゅもくはしょくほうほう)』(1747年)では、第一項でいきなりスギの植樹方法を説明しています。
そこで説明されているスギの植樹方法は2種類。
ひとつは、採取したスギの枝(挿し穂)を土に植える方法。もうひとつは、スギの実を土に植える方法です。
詳細は省きますが、まるで園芸書のように実用的です。挿し穂のイラストまで入っています。
『樹木播植方法』と同年同月に発布された『杣山法式仕次(そまやまほうしきしつぎ)』第11項には、当時の琉球にスギが存在していなかったことが記されています。
いわく、キリやヒノキなどと並んでスギは「極めて大切な用木であるが、当琉球にはなくすべて他国より輸入している。今後これらを輸入しなくてもよいように速やかに植栽し造林しなければならない」。
上記の二書が書かれた1747(乾隆12)年といえば、蔡温が中頭・国頭の山林事業を調査監督に赴いた年でもあります。
二書はこの調査中に書かれており、『樹木播植方法』には蔡温に同道した源河親雲上と安里親雲上(蔡温の家譜では安里『親方』)の署名がありますから、この調査と上記二書には密接なかかわりがあると見てよいでしょう。
ちなみに、家譜によればこのとき蔡温は「辺戸村」まで到達しているので、ほとんど沖縄本島の最北端まで行っています。有名な「蔡温松」はこの頃に植えられたのかも知れません。
薩摩藩主・島津吉貫の死去の報を受けていったん首里に帰った後、数日のうちに再び国頭に赴いています。
じつにエネルギッシュな蔡温ですが、このときなんと数え年で66歳です。
さて、王府は何のためにスギの育成を奨励したのでしょうか。
同じく『林政八書』の一書である『山奉行所公事帳』(1751年)第11項によれば、首里城正殿の建材にするためであったとのことです。
「前にも指示したように首里城の正殿の改築には杦(『木へん』に『久』でスギと読む)および樫木(イヌマキ)を用材とすれば数十百年も保持されるから、これら良木を広く植栽すること」(括弧内は引用者)
「前にも指示したように」とありますが、その「指示」は『林政八書』には見当たりません。
首里城正殿の建材にイヌマキを使用せよとの記述はありますが、スギを使用せよとの記述は、上記の引用箇所以外に見当たらないのです。
首里城正殿の建材にスギを使用することは、実際にあったのでしょうか。
今のところ、(私には)これ以上のことはわかりません。
最後に、『沖縄大百科事典』で「スギ」の項目を調べてみると、こんな記述がありました。
「沖縄でも古くから植栽され、スギの適地を〈スギ敷〉と称してきた。自生のスギがあるといわれるが明確でない」
現在の状況を見るかぎり、王府の努力も虚しく、スギは沖縄に定着しなかったということでしょうか。
当時はスギ花粉症など想像もできなかったと思いますが、結果的にはスギの植林が成功しなくてよかったのかも知れません。
(記事タイトルは『樅の木は残った』(山本周五郎)のもじりです。読んだことないけど)





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