2011年12月13日
蔡温シンポジウム、今週土曜日に開催
新聞記事みたいなタイトルを付けましたが、ブログ読者の方に教えていただいた情報をご紹介します。
12月17(土)に、那覇市のさいおんスクエアで「蔡温シンポジウム」が開催されます。
下記URLのパンフレットをご参照ください。
※PDFです。
蔡温シンポジウム -蔡温の思想と森林政策に学ぶ-
以下、パンフから抜粋。
-----------------------------------------
日時:平成23年12月17日(土)14:00~17:00
(茶太郎注:要するに今週の土曜日。お間違えなきように!)
場所:さいおんスクエア(牧志駅前ほしぞら公民館)
入場無料(先着200名まで)
-----------------------------------------
副題のとおり、蔡温の森林政策を中心とした内容になるようです。
なぜ森林に焦点をあてるのかと思ったら、なんでも、今年は国連が定めた「国際森林年」にあたるそうです。だからNHKで唐突にこんな↓CMをやってたのか~、と納得。
「やさしい森」 ―2011年度NHK-AC共同キャンペーン―
※「あ、シンケンピンクだ!」と思ったのは内緒である。
パンフレットにもあるとおり、今年は蔡温の没後250年です。すでに「でした」と言ったほうがいい時期になってしまいましたが……。
おととしの島津侵攻400年みたいに何かイベント的なことをやらないのかな、と思っていたのですが、年末にやっと来た感じですね。
あ、そもそも会場の「さいおんスクエア」がオープンしたのも、偶然かもしれませんが今年でしたね。
そういえば、こんな本も出版されましたね!(☆∀☆)
……残念ながら私はシンポジウムには行けませんが、ご興味のある方はぜひぜひ足を運んでみてください。
以上、「蔡温シンポジウム」を勝手にご案内させていただきましたm(_ _)m
12月17(土)に、那覇市のさいおんスクエアで「蔡温シンポジウム」が開催されます。
下記URLのパンフレットをご参照ください。
※PDFです。
蔡温シンポジウム -蔡温の思想と森林政策に学ぶ-
以下、パンフから抜粋。
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日時:平成23年12月17日(土)14:00~17:00
(茶太郎注:要するに今週の土曜日。お間違えなきように!)
場所:さいおんスクエア(牧志駅前ほしぞら公民館)
入場無料(先着200名まで)
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副題のとおり、蔡温の森林政策を中心とした内容になるようです。
なぜ森林に焦点をあてるのかと思ったら、なんでも、今年は国連が定めた「国際森林年」にあたるそうです。だからNHKで唐突にこんな↓CMをやってたのか~、と納得。
「やさしい森」 ―2011年度NHK-AC共同キャンペーン―
※「あ、シンケンピンクだ!」と思ったのは内緒である。
パンフレットにもあるとおり、今年は蔡温の没後250年です。すでに「でした」と言ったほうがいい時期になってしまいましたが……。
おととしの島津侵攻400年みたいに何かイベント的なことをやらないのかな、と思っていたのですが、年末にやっと来た感じですね。
あ、そもそも会場の「さいおんスクエア」がオープンしたのも、偶然かもしれませんが今年でしたね。
そういえば、こんな本も出版されましたね!(☆∀☆)
……残念ながら私はシンポジウムには行けませんが、ご興味のある方はぜひぜひ足を運んでみてください。
以上、「蔡温シンポジウム」を勝手にご案内させていただきましたm(_ _)m
2011年12月06日
蔡温、山登りする
現在の名護市にある多野岳は、かつての羽地間切における最高峰です。標高約385m。地元では「タニュー」と呼ばれているようです。『羽地大川修補日記』にも「たにう山」と記されています。

とんがってるのが多野岳かな?
羽地大川の改修工事を終えた蔡温は、首里に帰る前に、部下を引き連れて多野岳に登りました。
近世琉球における最大規模の土木工事を完遂した部下たちに、休む暇を与えず登山をさせる蔡温。上司にしたくない男です。
蔡温たちはがっつり頂上まで登ったようです。中腹あたりをぶらぶらと散策して、景色の良いところでお弁当を広げ、楽しい思い出を胸いっぱいに抱えて下山したわけではなかったのです。
さて現在、多野岳は頂上まで舗装路が通っていて、自動車で登れます。
というわけで、私も原付で登ってみました。頂上からの眺めが素晴らしいという情報を得ていましたからね。何より、蔡温が見た景色をオラも見てみたいズラ!

羽地中学校
58号線を北上するルートの場合、羽地中学校前のT字路を右折します(この写真でいえば手前に曲がる)。あとはひたすら登るだけ。

登っている途中でもなかなかの景色が見られます。
見えているのは羽地内海です。天気が悪いのは残念。
そして頂上(早っ)。

頂上から本部半島方面を望む(写真が斜めすぎるのは気にしないで)
名護遷都・運河開削論では、右に見える羽地内海と、左に見える名護湾の間に、ズバッと運河を通す計画だったわけです。
これは思うに、羽地内海の入口にある運天港と、「新王都」になるはずの名護を、水運で結ぶねらいもあったのでしょう。そうだとすると、蔡温の首里築港論と、考え方としては共通する部分があります。
港(那覇)と都(首里)を結ぶ交通インフラの整備が、当時は課題だったのかもしれません。長虹堤など、人と物資の往来がかなり激しかったと思いますし。
それにしても、蔡温の業績で今日の沖縄に最も影響を与えているのは、じつは「名護遷都・運河開削論を封じたこと」かもしれないと思う昨今。
上の写真中央の町が見えているあたりが、「羽地ターブックヮ」です。おそらく蔡温たちは、改修したばかりの羽地大川がキラキラ輝く姿を見ることができたでしょう。
しかし、彼らの登山の目的は、自分たちの偉業を見下ろしてニヤニヤすることではありませんでした。
北側に目を転じてみると、まったく違う景色が開けます。

ヤンバルの森が一望のもとに。
これは絶景です。
この「山」を部下たちに見せることが、蔡温の目的でした。景色を楽しませようとしたわけではありません。「諸山盛衰ノ様子」、つまり、山を遠望して森林の状態を見立てるための方法を伝授したのです。この方法は、翌年に発布された『杣山法式帳』に、「遠山樹木見様之事」として図入りで紹介されています。
蔡温の代表的な業績のひとつである山林(杣山)育成政策は、この翌年から本格的に始まることになります。
羽地大川改修という大事業を終えたばかりの時期に、蔡温は浮かれることなく、先を見据えていたのですね。多野岳の頂上に立ち、「俺たちの闘いははじまったばかりだ!」とぶちあげたのでしょう。
週刊少年ジャンプならばここで連載を打ち切られるところですが、蔡温はこの後、十年以上にもわたって杣山政策を継続したところがすごい(比較がおかしい)。

羽地内海・屋我地島・古宇利島も一望。
ジャングルと海と島を同時に見下ろせる場所は、沖縄でもなかなかないと思います。もっと宣伝すればよいのにー。

空から見ると、こう。

ここにヤンバルを見下ろす蔡温の銅像を建てたら、めっちゃカッコイイと思うんですけどねー。近くにパラグライダーかハンググライダーのランチャー台みたいなのがあるので、ちょっと危ないかもしれませんが。
なお、右の建物はホテル・タニュー(の裏側)。朝日と夕日をどちらも見られる素敵なホテルじゃん、と思ったら、来年の元旦で閉鎖するそうです。一度泊まってみようかと思ってたのに、残念だにゅ。

反対側から、辺野古崎もちょっと見えました。
そして下山。

ふたたび羽地中学校の壁画が迎えてくれます。
ちなみに、この壁画は羽地中学校前の橋から撮影しています。
この橋から下を見下ろすと……

何がなんだかわからないと思いますが、この下に(現在の)羽地大川が流れているのです。
冬に撮影すると、こう↓

そして、この写真がこうなったわけです↓

じつは、表紙は羽地大川だったんですね~。ちゃんと蔡温にかかわりのある写真だったのです。いやあ、ニクイ演出だな~、ははは(ネタばらしが遅すぎる……)。
以上、茶太郎の羽地紀行でした。
※一連の羽地関連の記事の参考文献は、名護市教育委員会編『羽地大川修補日記』です。これ一冊でずいぶん遊べますよ~。
とんがってるのが多野岳かな?
羽地大川の改修工事を終えた蔡温は、首里に帰る前に、部下を引き連れて多野岳に登りました。
近世琉球における最大規模の土木工事を完遂した部下たちに、休む暇を与えず登山をさせる蔡温。上司にしたくない男です。
蔡温たちはがっつり頂上まで登ったようです。中腹あたりをぶらぶらと散策して、景色の良いところでお弁当を広げ、楽しい思い出を胸いっぱいに抱えて下山したわけではなかったのです。
さて現在、多野岳は頂上まで舗装路が通っていて、自動車で登れます。
というわけで、私も原付で登ってみました。頂上からの眺めが素晴らしいという情報を得ていましたからね。何より、蔡温が見た景色をオラも見てみたいズラ!
羽地中学校
58号線を北上するルートの場合、羽地中学校前のT字路を右折します(この写真でいえば手前に曲がる)。あとはひたすら登るだけ。
登っている途中でもなかなかの景色が見られます。
見えているのは羽地内海です。天気が悪いのは残念。
そして頂上(早っ)。
頂上から本部半島方面を望む(写真が斜めすぎるのは気にしないで)
名護遷都・運河開削論では、右に見える羽地内海と、左に見える名護湾の間に、ズバッと運河を通す計画だったわけです。
これは思うに、羽地内海の入口にある運天港と、「新王都」になるはずの名護を、水運で結ぶねらいもあったのでしょう。そうだとすると、蔡温の首里築港論と、考え方としては共通する部分があります。
港(那覇)と都(首里)を結ぶ交通インフラの整備が、当時は課題だったのかもしれません。長虹堤など、人と物資の往来がかなり激しかったと思いますし。
それにしても、蔡温の業績で今日の沖縄に最も影響を与えているのは、じつは「名護遷都・運河開削論を封じたこと」かもしれないと思う昨今。
上の写真中央の町が見えているあたりが、「羽地ターブックヮ」です。おそらく蔡温たちは、改修したばかりの羽地大川がキラキラ輝く姿を見ることができたでしょう。
しかし、彼らの登山の目的は、自分たちの偉業を見下ろしてニヤニヤすることではありませんでした。
北側に目を転じてみると、まったく違う景色が開けます。
ヤンバルの森が一望のもとに。
これは絶景です。
この「山」を部下たちに見せることが、蔡温の目的でした。景色を楽しませようとしたわけではありません。「諸山盛衰ノ様子」、つまり、山を遠望して森林の状態を見立てるための方法を伝授したのです。この方法は、翌年に発布された『杣山法式帳』に、「遠山樹木見様之事」として図入りで紹介されています。
蔡温の代表的な業績のひとつである山林(杣山)育成政策は、この翌年から本格的に始まることになります。
羽地大川改修という大事業を終えたばかりの時期に、蔡温は浮かれることなく、先を見据えていたのですね。多野岳の頂上に立ち、「俺たちの闘いははじまったばかりだ!」とぶちあげたのでしょう。
週刊少年ジャンプならばここで連載を打ち切られるところですが、蔡温はこの後、十年以上にもわたって杣山政策を継続したところがすごい(比較がおかしい)。
羽地内海・屋我地島・古宇利島も一望。
ジャングルと海と島を同時に見下ろせる場所は、沖縄でもなかなかないと思います。もっと宣伝すればよいのにー。
空から見ると、こう。
ここにヤンバルを見下ろす蔡温の銅像を建てたら、めっちゃカッコイイと思うんですけどねー。近くにパラグライダーかハンググライダーのランチャー台みたいなのがあるので、ちょっと危ないかもしれませんが。
なお、右の建物はホテル・タニュー(の裏側)。朝日と夕日をどちらも見られる素敵なホテルじゃん、と思ったら、来年の元旦で閉鎖するそうです。一度泊まってみようかと思ってたのに、残念だにゅ。
反対側から、辺野古崎もちょっと見えました。
そして下山。
ふたたび羽地中学校の壁画が迎えてくれます。
ちなみに、この壁画は羽地中学校前の橋から撮影しています。
この橋から下を見下ろすと……
何がなんだかわからないと思いますが、この下に(現在の)羽地大川が流れているのです。
冬に撮影すると、こう↓
そして、この写真がこうなったわけです↓

じつは、表紙は羽地大川だったんですね~。ちゃんと蔡温にかかわりのある写真だったのです。いやあ、ニクイ演出だな~、ははは(ネタばらしが遅すぎる……)。
以上、茶太郎の羽地紀行でした。
※一連の羽地関連の記事の参考文献は、名護市教育委員会編『羽地大川修補日記』です。これ一冊でずいぶん遊べますよ~。
2011年09月08日
蔡温版・羽地大川の写真
現在の羽地大川は、蔡温が改修した当時とは流路が大きく異なります。昭和(戦前)の改修工事で流路が変更されたためです。
昭和の改修前の羽地大川、つまり蔡温が改修したままの羽地大川の姿をうつした写真がないものかと、ずいぶん前から書籍やネットをあれこれ探していました。それが最近、ようやく見つかったので、ここに記すものである!(どーん)
東京大学総合研究博物館に所蔵されているようです。同館のデジタルミュージアムで閲覧できます。
無許可で画像を貼るのはマズイと思うので、以下のリンクをご参照ください。
写真番号6046「沖縄本島北部・羽地の水田風景」
(リンク先の写真をクリックすると拡大表示できます)
蔡温改修の特徴である、流路の連続S字カーブがはっきりとわかります。というより、S字カーブがよく見える位置を選んで撮影しているような気がします。
写真を拡大すると、クバ笠らしきものをかぶって農作業に勤しむ人々や、水田にたたずむ牛たちの姿も見えるのです。素晴らしい!
デジタルミュージアムの説明を読むかぎり、撮影したのは人類学者の鳥居龍蔵のようです。鳥居龍蔵の沖縄調査は1904(明治37)年なので、そのときのものでしょう。
鳥居龍蔵も、蔡温版・羽地大川の奇妙な形に興味をひかれたのかもしれません。正直、鳥居龍蔵って名前ぐらいしか知りませんでしたが、じつに良い仕事をなさったものであるよ。
鳥居龍蔵の沖縄調査では、伊波普猷もこれを手伝ったそうです。伊波はこのとき、蔡温のことを鳥居龍蔵に語ったのかもしれません。このカメラの横には、「沖縄学の父」が立っていたのかもしれません。
かもしれませんばっかりですが、いろいろ想像をかきたてられます。
さてこの写真、どこからどこに向かって撮影したのでしょう。
大雑把な感じとして、下流(海)側の丘から上流の方向を写しているように見えますが……。
これは、現地に行って確かめないとわかりませんな!
次に沖縄に行くときは、同じ場所に立って同じアングルの写真を撮るしかないな!(また羽地まで行く口実ができて嬉しい!)
それにしてもこの写真、もうちょっと早く見つけていれば、編著書に載せられたかもしれないんですけどね。残念です。
え、編著書とは何かって?
それはですね、ボーダーインク刊『蔡温の言葉』のことです!
琉球王国の最も偉大な政治家・蔡温の著作を現代語訳しています!
沖縄の本屋さんか、本土の大型書店で探してね!
ボーダーインクのホームページ(上記リンク)からも購入可能! 送料無料! 宣伝乙!
……最低な締めにて、今回はこれまで。
昭和の改修前の羽地大川、つまり蔡温が改修したままの羽地大川の姿をうつした写真がないものかと、ずいぶん前から書籍やネットをあれこれ探していました。それが最近、ようやく見つかったので、ここに記すものである!(どーん)
東京大学総合研究博物館に所蔵されているようです。同館のデジタルミュージアムで閲覧できます。
無許可で画像を貼るのはマズイと思うので、以下のリンクをご参照ください。
写真番号6046「沖縄本島北部・羽地の水田風景」
蔡温改修の特徴である、流路の連続S字カーブがはっきりとわかります。というより、S字カーブがよく見える位置を選んで撮影しているような気がします。
写真を拡大すると、クバ笠らしきものをかぶって農作業に勤しむ人々や、水田にたたずむ牛たちの姿も見えるのです。素晴らしい!
デジタルミュージアムの説明を読むかぎり、撮影したのは人類学者の鳥居龍蔵のようです。鳥居龍蔵の沖縄調査は1904(明治37)年なので、そのときのものでしょう。
鳥居龍蔵も、蔡温版・羽地大川の奇妙な形に興味をひかれたのかもしれません。正直、鳥居龍蔵って名前ぐらいしか知りませんでしたが、じつに良い仕事をなさったものであるよ。
鳥居龍蔵の沖縄調査では、伊波普猷もこれを手伝ったそうです。伊波はこのとき、蔡温のことを鳥居龍蔵に語ったのかもしれません。このカメラの横には、「沖縄学の父」が立っていたのかもしれません。
かもしれませんばっかりですが、いろいろ想像をかきたてられます。
さてこの写真、どこからどこに向かって撮影したのでしょう。
大雑把な感じとして、下流(海)側の丘から上流の方向を写しているように見えますが……。
これは、現地に行って確かめないとわかりませんな!
次に沖縄に行くときは、同じ場所に立って同じアングルの写真を撮るしかないな!(また羽地まで行く口実ができて嬉しい!)
それにしてもこの写真、もうちょっと早く見つけていれば、編著書に載せられたかもしれないんですけどね。残念です。
え、編著書とは何かって?
それはですね、ボーダーインク刊『蔡温の言葉』のことです!
琉球王国の最も偉大な政治家・蔡温の著作を現代語訳しています!
沖縄の本屋さんか、本土の大型書店で探してね!
ボーダーインクのホームページ(上記リンク)からも購入可能! 送料無料! 宣伝乙!
……最低な締めにて、今回はこれまで。
2011年08月06日
米どころが見つからなくてコメっちゃったの巻
前回からのつづき

しばらくすると、こうして開けてきます。
この平野こそ、羽地大川改修工事の中心となった場所。琉球屈指の穀倉地帯だった羽地ターブックヮです。
うん、広い!(もっと感想を工夫しろ!)

今はもう、このあたりで稲作は行われていないようです。ほとんどがサトウキビらしき畑でした。

我部祖河川
我部祖河川がこんなにまっすぐになったのは戦後のはず。1945年に米軍が撮影した空中写真では、もっとウネウネしています。

このあたりまで遡ると、かなり岸辺が整備されていますね。

地層が見えるということは、ここは初めて掘り返された場所と考えてよいのかな?

ここで一旦、行き止まりです。

対岸に一面だけ水田が見えました。
引きかえして、平野をぐるぐるめぐります。



レンゲ草の花畑

レンゲ草は空気中の窒素を固定して、土を肥やしてくれます。昔は牛の餌にもなったそうです(Google先生調べ)。

蔡温がつくった流路の名残
水の勢いを抑えるため、S字カーブを連続させるような流路を意図的につくったのが特徴。

このカーブはその名残なのかもしれません。
そんな由緒ある用水路とも知らず、のんきにチャプチャプやっている鳥がいました。

「水ウメー」
諸行無常にて候。

さらに徘徊していたら、こんな立派な井戸が。

こりゃ飲めん。

近くに拝所も。

「二百年記念」

「昭和十一年八月廿日建立」
昭和11年=1936年。
1936年-200年=1736年。
蔡温による羽地大川改修の翌年ですね。
羽地大川の改修後、このあたりには新村がいくつか建設されています。ここもそういう村のひとつなのかもしれません。つまり、村の創立200年記念。

「内袋橋」
田袋(ターブックヮ)にゆかりのありそうな名称がちらほら見えます。

「伊奈田」かと思ったら、そのまま「稲田」でした。
県道を越えて川上地区へ向かいます。

「羽地大川改修顕彰碑」
これは蔡温の改修ではなく、昭和の改修の顕彰碑。川上公民館の敷地にあります。見つけたのは、たまたまです。
蔡温による改修の記念碑である「改決羽地川碑記」も復元されているはずですが、どこにあるのかわかりませんでした。まあ復元だしと思って、あまり熱心に探さなかったので……。
しばらくこのあたりをさまよったのは、もう一度、この田園地帯を見たかったからです。
前回は人に教えられるままに移動したので、そもそも自分の行った場所がどこなのか、よくわかっていませんでした。
やっぱり見つからないか……。あきらめかけたそのとき、我々はついにその場所にたどり着いた!(注:一人旅である。)

青々としとるー!
前回は冬だったので、何も植わっていませんでした。今回は6月初め。こんなに田んぼ田んぼした景色を見られるとは! 素晴らしい! 稲ってイーネー!(待て!もうすぐ終わるから!)


稲の花が咲いとるー!

ナイチャーの私にはびっくりですが、6月のうちに稲刈りするんですよね。稲刈りは赤とんぼの季節にやるものという固定観念が崩れ去ります。

それにしても、田園地帯の空気感は、沖縄も本土もそっくりです。きっと田んぼの空気は、中国でも東南アジアでもインドでも、それほど変わらないのでしょう。行ったことないですが。
しばらくすると、こうして開けてきます。
この平野こそ、羽地大川改修工事の中心となった場所。琉球屈指の穀倉地帯だった羽地ターブックヮです。
うん、広い!(もっと感想を工夫しろ!)
今はもう、このあたりで稲作は行われていないようです。ほとんどがサトウキビらしき畑でした。
我部祖河川
我部祖河川がこんなにまっすぐになったのは戦後のはず。1945年に米軍が撮影した空中写真では、もっとウネウネしています。
このあたりまで遡ると、かなり岸辺が整備されていますね。
地層が見えるということは、ここは初めて掘り返された場所と考えてよいのかな?
ここで一旦、行き止まりです。
対岸に一面だけ水田が見えました。
引きかえして、平野をぐるぐるめぐります。
レンゲ草の花畑
レンゲ草は空気中の窒素を固定して、土を肥やしてくれます。昔は牛の餌にもなったそうです(Google先生調べ)。
蔡温がつくった流路の名残
水の勢いを抑えるため、S字カーブを連続させるような流路を意図的につくったのが特徴。
このカーブはその名残なのかもしれません。
そんな由緒ある用水路とも知らず、のんきにチャプチャプやっている鳥がいました。
「水ウメー」
諸行無常にて候。
さらに徘徊していたら、こんな立派な井戸が。
こりゃ飲めん。
近くに拝所も。
「二百年記念」
「昭和十一年八月廿日建立」
昭和11年=1936年。
1936年-200年=1736年。
蔡温による羽地大川改修の翌年ですね。
羽地大川の改修後、このあたりには新村がいくつか建設されています。ここもそういう村のひとつなのかもしれません。つまり、村の創立200年記念。
「内袋橋」
田袋(ターブックヮ)にゆかりのありそうな名称がちらほら見えます。
「伊奈田」かと思ったら、そのまま「稲田」でした。
県道を越えて川上地区へ向かいます。
「羽地大川改修顕彰碑」
これは蔡温の改修ではなく、昭和の改修の顕彰碑。川上公民館の敷地にあります。見つけたのは、たまたまです。
蔡温による改修の記念碑である「改決羽地川碑記」も復元されているはずですが、どこにあるのかわかりませんでした。まあ復元だしと思って、あまり熱心に探さなかったので……。
しばらくこのあたりをさまよったのは、もう一度、この田園地帯を見たかったからです。
前回は人に教えられるままに移動したので、そもそも自分の行った場所がどこなのか、よくわかっていませんでした。
やっぱり見つからないか……。あきらめかけたそのとき、我々はついにその場所にたどり着いた!(注:一人旅である。)
青々としとるー!
前回は冬だったので、何も植わっていませんでした。今回は6月初め。こんなに田んぼ田んぼした景色を見られるとは! 素晴らしい! 稲ってイーネー!(待て!もうすぐ終わるから!)
稲の花が咲いとるー!
ナイチャーの私にはびっくりですが、6月のうちに稲刈りするんですよね。稲刈りは赤とんぼの季節にやるものという固定観念が崩れ去ります。
それにしても、田園地帯の空気感は、沖縄も本土もそっくりです。きっと田んぼの空気は、中国でも東南アジアでもインドでも、それほど変わらないのでしょう。行ったことないですが。
2011年07月17日
我部祖河川と何度も書いたら漢字だらけになったでござるの巻
おなじみ名護親方。良いお顔をしてらっしゃる。
しかしこの像のモデルになった肖像画は、すごい目ヂカラである。「名護聖人」のくせに、怒ったらめちゃくちゃ怖そうなのである。
「呼んだか? 聖人ならここにいるぜ?」
↑
メンズナックル風キャッチコピー(やめろー)
というわけで、名護市にやってきました(以下、去年の沖縄旅行の話)。
名護親方像があるのは、名護博物館前。
せっかくだから名護博物館に入ってみようと思ったら……
そうでした。
明るいうちに那覇に戻りたかったので、名護に行くのはこういう施設が休みになる月曜日を選んだのでした。寄り道しないようにです。
「さすが俺。俺のことをよくわかっている!」と感心しましたよ。くそーっ。
さて、名護に来た目的はこれです。
急に海が見たくなって……(ウソ)
ここは羽地内海。
蔡温による羽地大川改修工事の現場を、ふたたび見にきたのでした。
前回は、羽地大川を見て、今はもういないあの人(さいおん)を想って胸をキュンキュンさせたものです。
しかし現在の羽地大川は、近代(戦前)の大改修で流路が大きく変えられています。蔡温がつくった当時の流れではないのです。
蔡温による改修工事の現場は、むしろ、現在の我部祖河(がぶそか)川の流域でした。
前回は時間がなくて断念しましたが、今回は心ゆくまで現場を堪能するのだー!
見たことある図だなあ、と思われた方に熱烈感謝。
要するに、蔡温当時、我部祖河川と羽地大川は同じ河口だったのです。
我部祖河川の河口。橋は呉我橋。
河口の位置は、蔡温の頃からそれほど変わっていないはず。あるいは、まったく変わっていないのかもしれません。
呉我橋から見た我部祖河川(漢字が多いな!)
護岸
岸伝いに道があるので、我部祖河川をさかのぼってみることにしました。
水面が近いなー。
川面にたたずむ姿よき鳥を発見。
サギかな?
よく見ようと岸壁に近づいたら、あっさり逃げられました。
「イヤ~ン、のび太さんのエッチ!!!」
待ってよ、しずかちゃ~ん。
……。
川岸の道
河口近くが土の岸辺って、今では珍しいのでは。
何やらネイチャーな感じに……。
今度は小さな橋を発見。
橋の下の水路
この水路、蔡温改修時の羽地大川の名残である。はず。
近代の改修時、蔡温の旧流路は、用水路として一部再利用されたのです。
当時のままの姿とは思えませんし、流れの位置も変わっているかもしれませんが、蔡温のつくった川が確かにここにあったことをしのばせます。
そういう歴史を抜きにしても、ここの景観はなかなかのもの。
(つづく)



