2012年04月17日

上里隆史氏が4冊も本を書いたから紹介するよっ( ・ω・)ノ

今年に入って、琉球史研究家の上里隆史氏が4冊の著書(共著?含む)を刊行されました。
こうも続々刊行されると、働きすぎちゃうんかという心配はもとより、「どれから読めばいいのかわからない!」と迷う人がいるのではないかという懸念もあります。迷った挙句に「とりあえず『蔡温の言葉』でも買って読もう」と思われた方はそのままレジにお進みいただくとして、そうでない方のために、4冊すべて読んだ私がここに感想を記し、琉球史を愛する歴男・歴女のみなさまへのご参考に供するものである!(どどーん)

個別の感想を述べる前に、前提として、4冊とも面白いです。お世辞を言うわけじゃありませんが、本当に面白いです。それぞれテーマもかぶっていないので、一度に全部買っても、興味を引かれたものから先に手に取っても、どちらも正解だと思います。

紹介する順番は、刊行順ではなく、対象年齢の下限が低そうな順(つまり子どもでも読める順)にします。わざわざ「下限」というのは、上限はないと思うからです。どれも、大人が読んでも面白いです。



『琉球という国があった』(月刊「たくさんのふしぎ」通巻326号)福音館書店




福音館のホームページには「小学3年生から」とありますが、たしかにこれがギリギリの下限でしょう。結構レベルが高いです。なかなかにスパルタです。

かつて交易で栄えた琉球という国があり、それはどのような国際情勢のなかで、どのような出自の人々によって形づくられてきたのか、というストーリーになっています。古琉球期がメインです。いわゆる通史とはちょっと違うので注意。

文章の説明は、後述する『海の王国・琉球』の超・ダイジェスト版と言っていいでしょう。大人の読者は、本書を読んでから『海の王国・琉球』を読み、また本書に帰るという往復をすれば、かなり理解が深まると思います。
一読して、小学生にはちょっと難しいかもと思いましたが、国民国家の観念や一国史観にとらわれた(自分含む)大人よりも、頭の柔らかい小学生のほうがすんなり理解できるかもしれません。誤解をおそれずに言うと、琉球にもともと住んでいた人と、いろいろな国から来た人が、「琉球人」として協力しあってできたのが琉球という国ですよ、というボーダーレス社会のお話ですから。

本書の特色は、やはりビジュアル面が充実していることです。
一ノ関圭氏のイラストは、かなり細かいところまで時代考証に隙がないでしょう。特に、古琉球の那覇の市場と、首里城のイラストは要注目です。

那覇の市場を俯瞰した群像画には、さまざまな出自の人間が入り混じっている様子が描かれています。琉球の庶民・役人・お姫様のなかに、中国人、朝鮮人、ヤマトの坊さん、ポルトガル人らしき西洋人などがいます。よく見ると、頭から布をかぶって両手でちょっと持ち上げるしぐさ(大河ドラマで深キョンがよくやってるポーズ)のヤマト人らしき女性や、南蛮(東南アジア)人らしき人もいます。
市場の売り物にも注目です。野菜や魚はわかるのですが、ジャンク船の模型を売っているのにはびっくり。こういうものを作る人がいたんでしょうか。

首里城における正月儀式の絵は、「人物、邪魔!」と思うぐらい(すみません)、首里城正殿に目が向いてしまいます。屋根が瓦葺きでなく板葺きなのは「知ってたわー、俺知ってたわー」というところですが、なんか全体的にのっぺりしていて、そもそも首里城に見えない……。
なぜかと思ったら、唐破風(正面に突き出た屋根)がない! 屋根の両端にあるはずの龍の頭の飾り(龍頭棟飾)もない! 
じっさい、唐破風は最初から首里城正殿にあったわけではないらしく、龍頭棟飾も近世期の1682年に初めて作られたそうです(『首里城の復元』海洋博覧会記念公園管理財団)

富山義則氏の写真が、これまた良い味です。もともとの写真がそうなのか、印刷の仕様によるものなのかは不明ですが、ドットが潰れて色がベタッとのっているような、妙に陰影の濃い画質が、古い百科事典のカラー写真みたいなのです。何が言いたいかというと、とても「懐かしい」のです。ノスタルジーを刺激されまくりです。斜めの日差しが切ない孔子廟の写真など、見ているだけで「ああ、親孝行しなきゃ……」と思わされます(なんだそりゃ)。

余談ですが、この本、インクがとても良いにおいです(※好みには個人差があります)。
周囲に誰もいないことを確認してから、本に顔を近づけてクンカクンカしてみることをおすすめします。当然ですが、書店に並んでいる本でやってはいけません。ちゃんと買ってからクンカクンカしましょう。買った本なら、気の済むまでクンカクンカしていいです。



『琉球戦国列伝 駆け抜けろ!古琉球の群星たち』ボーダーインク



「琉球史、やばッ!!」という帯のコピーが鮮烈すぎて、『琉球戦国列伝』というタイトルだったことにしばらく気づきませんでした……。

三山時代から尚真王代までを「琉球戦国時代」として、その時代を彩った人物たちを紹介しています。がっつり時代考証された和々氏の人物イラストと、ここまで詳細な古琉球の人物説明って実は初めてじゃないかと思わせる上里氏の解説が魅力の一冊。

文章は多いのですが、ある意味、『琉球という国があった』よりも低年齢から楽しめるかもしれません。私も小学校低学年のとき、関羽や趙雲の活躍がカッコよくて『三国志演義』にハマりましたからね。ストーリーはほとんど理解できていませんでしたが、結構難しい三国志関連の本を図書館から引っ張りだして読んだような記憶があります。キャラ萌えは歴史マニアへの王道なのです!

さて、ビジュアルのインパクトというのはやはり強烈なもので、表紙の真ん中にいる源義経みたいな甲冑のおっさんは誰やねんと思ったら、なんと尚巴志だった! 頭ではそれが考証的に正しいとわかっていても、これはなかなかのショックでした。

一番強そうな大城賢雄には、「ロールプレイングゲームで言えば、魔法もつかえる戦士」という和々氏の直球なコメントが。
じゅもん、ではなく「おもろ」を唱えて怪奇現象を巻き起こすようなイカす奴だったそうです。たしかに、いかにも猛将という面構えの攀安知に比べて、大城賢雄はベギラマぐらいは使えそうな知的な顔に描かれています。こういう描き分けは、さすがプロですね。

こういう人物イラストというのはやはり悪人ヅラしたヤツのほうが魅力的なもので、早田六郎次郎なんか悪そうやな~、と思って解説を読んだら、やっぱり悪い奴だった(笑)
もちろん、こういうキャラ分けは「あえて」やっているとのことですが、正史では悪逆な君主として記されている尚徳王が武に長けた爽やかイケメン風に描かれているなど、既存のイメージを見直そうとするこだわりも見えますね。

思わず感心したのは、即位当時まだ子どもだった尚真王が、皮弁服ブカブカで描かれていること。冊封を受けるまでは亡き父王の皮弁服を着たはずだから、というのが根拠。芸が細かいっ。

衣装の背中側をさりげなく見せたり、フィクションの小物にはきちんとフィクションと明記されているなど、細部まで気配りされて、丁寧につくられている印象です。
ゲームの攻略本をイメージしたということですが、私はどちらかというと、ビックリマンシールを連想しました。大城賢雄は絶対キラキラシールでしょう。
もしも商品化されたら、沖縄の子どもたちが「また茂知月按司かよ~」などと渋いセリフで悔しがる光景が見られるのでしょうか。胸熱です。これはビジネスチャンスかもしれませんなっ。

最後にどうしても素通りできないのは、「これがグスカー・スタイルだ!」という見開きページ。整備されていないグスクも多いので、グスクめぐりをするときはこんな服装で出かけましょう……というたいへん有意義なページなのですが、上里氏が書かれたという文章がすっげえ悪ノリ(ほめ言葉である!)。
グスカー・スタイルで「気分はSYO☆HASHI!」(原文ママ)になれるかどうかはともかく、これからグスクめぐりをしたい方は見ておいたほうがいいかもしれません。ただし、「要するにハイキング・スタイルじゃん?」「グスカーて言いたかっただけちゃう?」は禁句。



『琉球古道 歴史と神話の島・沖縄』河出書房新社




人が大地を踏みしめ、歩き、そして「道」が生まれた。

NHKスペシャルが始まりそうなモノローグが so cool……!
琉球の「道」にフィーチャーした1冊です。

東御廻いの順路や近世の宿道などの陸の道だけでなく、琉球人にとっては海も「道」だったという観点から、港を拠点とする海上の道も紹介されています。
「道」から見た琉球史、そもそも琉球人にとって「道」とはどういうものだったのか、といったテーマを、古道の跡を歩きながら語るというユニークな形式です。「古道」と銘打たれてはいますが、ナナサンマルや嘉手納ロータリーなど、現代の「道」にまつわるお話までカバーしています。

教室で先生の授業を聴く感じではなく、校外学習で先生の横を歩きながら話を聞く感覚に近いです。そのせいか、歴史叙述を離れて、個人としての上里氏が語っているような記述もちょくちょく見られます。こういうところも本書の魅力のひとつでしょう。
沖縄在住者でなくても楽しめますが、「左手に交番が見え……」などの超ローカルな記述は、やはり地元の人にとって嬉しいものだと思います。

個人的におもしろかったのは、耳切坊主の話。
耳切坊主の出没ポイント、つまり北谷王子の館が旧県立博物館の敷地にあったというのも初耳でしたが、耳切坊主こと黒金座主が実在の人物で、盛海(せいかい)という名だったというのが「へ~!」でした。
じつは以前から気になってはいたんですが、蔡温の異母兄の蔡淵が、正妻の子ではないという理由で修行に出されそうになったのが、「東竜寺の盛海座主」の下でした。盛海座主は東竜寺の住職から護国寺の住職になった人物だそうで(比嘉朝進『士族門中家譜』P.99)、これは耳切坊主じゃないのかと疑っていたのですが、やっぱりそうだったみたいです。
ちょっと運命が変わっていれば、蔡温の兄が耳切坊主の弟子、あるいは耳切坊主そのものになるという展開があったかもしれませんね。何やら不謹慎な気もしますが、胸ワクワク、耳グスグスですな!

琉球史マニアというほどではない一般的な読書好きの人にとっては、本書が一番楽しめそうな気がします。スタバでコーヒーを飲みながらページをめくるのにちょうどいい感じです。内容はけっこう本格的な歴史叙述なのですが、なんというか、本のオーラが。

ちなみに本書は、横浜そごうの本屋(紀伊國屋書店)の地方史コーナーでも平積みになってました。



『海の王国・琉球 「海域アジア」屈指の交易国家の実像』洋泉社



4冊のうち、研究者として最もスタンダードな仕事ですね。一国史観や王統史観ではなく、「海域アジア史」の視点から古琉球像が描かれています。

と言いつつ、正直なところ「海域アジア史」という概念が私にはいまいち理解できていません(異論があるのではなく、単純によくわからない)。あえて私なりの理解を述べると、海に隔てられた各国史的な見方から、海によってつながるひとつの「海域」としてアジア史をとらえようとする見方、なのかな? 習字にたとえるなら、線や点ではなく余白のバランスを意識して書くようなものかと思うのですが、このたとえはかえって誤解と混乱を招くかもしれません(じゃあ書くな)。

ともかく、本書は現時点における古琉球研究の集大成と言っていいものだと思います。少なくとも今後10年は、古琉球を研究する大学生が必ず読むべき入門書のひとつになるでしょう。
『目からウロコの琉球・沖縄史』シリーズを読まれた方なら、これまでトリビア的に語られてきた古琉球の知識が学術的に位置づけられていくのを見て、ちょっとした感動を覚えるのではないでしょうか。少なくとも私はそうでした。

華人・禅僧・倭寇ネットワークの活用、彼らがもたらす外来文化の受容、国営中継貿易から「倭寇的状況」に対応した貿易体制への転換など、興味深い論点はたくさんあるのですが、個人的に特におもしろかったのは、古琉球の東南アジア交易についてです。東南アジア交易のイメージが、本書を読んでずいぶん変わりました。
同じ朝貢国のよしみで、東南アジア諸国とは終始友好的な関係を保っていたイメージがあったのですが、交易品の売買形態をめぐる対立からシャム(タイ)との通交を一時停止するなど、けっこうシビアな駆け引きをしていたようです。

さらに意外だったのは、フィリピン交易の存在。冊封・朝貢体制の枠外にいたフィリピンとの通交は、これまであまり注目されてこなかったのでは?
東南アジア向けの外交文書は1570年を最後に見られなくなりますが、じつは16世期末まで、琉球はスペイン領フィリピンと通交していた可能性が高いようです。16世期末といえば、島津侵攻の直前と言ってもいい時期です。
じつは『琉日戦争 一六〇九』でもフィリピン交易には言及されていたのですが、私、興味がなかったんでしょうね。完全に記憶から飛んでましたね……。

本書の最終ページのメッセージには、まったくもって同意。多様性は多様性として、あるがままに受けとめればいいのです。強引に画一化しようとするなど、器の小さい業であることよ。
どんなことが書かれているのかは、実際に読んで確認すべし!m9っ`・ω・´)

なお、本書の記述はグスク時代から島津侵攻までほぼ時系列に並んでいますが、いわゆる通史とはちょっと違います。私も、頭の中で古琉球の通史的知識を補いながら読んでいた気がするので、ざっと通史を理解してから読んだほうがいいかもしれません。ざっとでいいですよ。


……以上、思わぬ長文になってしまいましたが、すこしでも琉球歴男・歴女の皆様のご参考になれば幸いです。
ただ、これで上里氏の新刊ラッシュも一段落かと思いきや、6月頃にまた新刊が出るみたいですわよー(こちらのプロフィール参照)。
働きすぎやで、ほんまに。  

Posted by 茶太郎 at 00:25Comments(0)TrackBack(0)メモ

2011年12月13日

蔡温シンポジウム、今週土曜日に開催

新聞記事みたいなタイトルを付けましたが、ブログ読者の方に教えていただいた情報をご紹介します。

12月17(土)に、那覇市のさいおんスクエアで「蔡温シンポジウム」が開催されます。
下記URLのパンフレットをご参照ください。

※PDFです。
蔡温シンポジウム -蔡温の思想と森林政策に学ぶ-

以下、パンフから抜粋。
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日時:平成23年12月17日(土)14:00~17:00
(茶太郎注:要するに今週の土曜日。お間違えなきように!)

場所:さいおんスクエア(牧志駅前ほしぞら公民館)

入場無料(先着200名まで)
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副題のとおり、蔡温の森林政策を中心とした内容になるようです。
なぜ森林に焦点をあてるのかと思ったら、なんでも、今年は国連が定めた「国際森林年」にあたるそうです。だからNHKで唐突にこんな↓CMをやってたのか~、と納得。

「やさしい森」 ―2011年度NHK-AC共同キャンペーン―

※「あ、シンケンピンクだ!」と思ったのは内緒である。


パンフレットにもあるとおり、今年は蔡温の没後250年です。すでに「でした」と言ったほうがいい時期になってしまいましたが……。
おととしの島津侵攻400年みたいに何かイベント的なことをやらないのかな、と思っていたのですが、年末にやっと来た感じですね。
あ、そもそも会場の「さいおんスクエア」がオープンしたのも、偶然かもしれませんが今年でしたね。
そういえば、こんな本も出版されましたね!(☆∀☆)


……残念ながら私はシンポジウムには行けませんが、ご興味のある方はぜひぜひ足を運んでみてください。
以上、「蔡温シンポジウム」を勝手にご案内させていただきましたm(_ _)m
  

Posted by 茶太郎 at 20:35Comments(2)TrackBack(0)メモ

2011年12月06日

蔡温、山登りする

現在の名護市にある多野岳は、かつての羽地間切における最高峰です。標高約385m。地元では「タニュー」と呼ばれているようです。『羽地大川修補日記』にも「たにう山」と記されています。



とんがってるのが多野岳かな?

羽地大川の改修工事を終えた蔡温は、首里に帰る前に、部下を引き連れて多野岳に登りました。
近世琉球における最大規模の土木工事を完遂した部下たちに、休む暇を与えず登山をさせる蔡温。上司にしたくない男です。

蔡温たちはがっつり頂上まで登ったようです。中腹あたりをぶらぶらと散策して、景色の良いところでお弁当を広げ、楽しい思い出を胸いっぱいに抱えて下山したわけではなかったのです。

さて現在、多野岳は頂上まで舗装路が通っていて、自動車で登れます。
というわけで、私も原付で登ってみました。頂上からの眺めが素晴らしいという情報を得ていましたからね。何より、蔡温が見た景色をオラも見てみたいズラ!



羽地中学校

58号線を北上するルートの場合、羽地中学校前のT字路を右折します(この写真でいえば手前に曲がる)。あとはひたすら登るだけ。



登っている途中でもなかなかの景色が見られます。

見えているのは羽地内海です。天気が悪いのは残念。


そして頂上(早っ)。



頂上から本部半島方面を望む(写真が斜めすぎるのは気にしないで)

名護遷都・運河開削論では、右に見える羽地内海と、左に見える名護湾の間に、ズバッと運河を通す計画だったわけです。
これは思うに、羽地内海の入口にある運天港と、「新王都」になるはずの名護を、水運で結ぶねらいもあったのでしょう。そうだとすると、蔡温の首里築港論と、考え方としては共通する部分があります。
港(那覇)と都(首里)を結ぶ交通インフラの整備が、当時は課題だったのかもしれません。長虹堤など、人と物資の往来がかなり激しかったと思いますし。
それにしても、蔡温の業績で今日の沖縄に最も影響を与えているのは、じつは「名護遷都・運河開削論を封じたこと」かもしれないと思う昨今。

上の写真中央の町が見えているあたりが、「羽地ターブックヮ」です。おそらく蔡温たちは、改修したばかりの羽地大川がキラキラ輝く姿を見ることができたでしょう。

しかし、彼らの登山の目的は、自分たちの偉業を見下ろしてニヤニヤすることではありませんでした。
北側に目を転じてみると、まったく違う景色が開けます。



ヤンバルの森が一望のもとに。

これは絶景です。
この「山」を部下たちに見せることが、蔡温の目的でした。景色を楽しませようとしたわけではありません。「諸山盛衰ノ様子」、つまり、山を遠望して森林の状態を見立てるための方法を伝授したのです。この方法は、翌年に発布された『杣山法式帳』に、「遠山樹木見様之事」として図入りで紹介されています。

蔡温の代表的な業績のひとつである山林(杣山)育成政策は、この翌年から本格的に始まることになります。
羽地大川改修という大事業を終えたばかりの時期に、蔡温は浮かれることなく、先を見据えていたのですね。多野岳の頂上に立ち、「俺たちの闘いははじまったばかりだ!」とぶちあげたのでしょう。
週刊少年ジャンプならばここで連載を打ち切られるところですが、蔡温はこの後、十年以上にもわたって杣山政策を継続したところがすごい(比較がおかしい)。



羽地内海・屋我地島・古宇利島も一望。

ジャングルと海と島を同時に見下ろせる場所は、沖縄でもなかなかないと思います。もっと宣伝すればよいのにー。


空から見ると、こう。



ここにヤンバルを見下ろす蔡温の銅像を建てたら、めっちゃカッコイイと思うんですけどねー。近くにパラグライダーかハンググライダーのランチャー台みたいなのがあるので、ちょっと危ないかもしれませんが。
なお、右の建物はホテル・タニュー(の裏側)。朝日と夕日をどちらも見られる素敵なホテルじゃん、と思ったら、来年の元旦で閉鎖するそうです。一度泊まってみようかと思ってたのに、残念だにゅ。



反対側から、辺野古崎もちょっと見えました。


そして下山。



ふたたび羽地中学校の壁画が迎えてくれます。

ちなみに、この壁画は羽地中学校前の橋から撮影しています。
この橋から下を見下ろすと……




何がなんだかわからないと思いますが、この下に(現在の)羽地大川が流れているのです。

冬に撮影すると、こう↓




そして、この写真がこうなったわけです↓



じつは、表紙は羽地大川だったんですね~。ちゃんと蔡温にかかわりのある写真だったのです。いやあ、ニクイ演出だな~、ははは(ネタばらしが遅すぎる……)。


以上、茶太郎の羽地紀行でした。

※一連の羽地関連の記事の参考文献は、名護市教育委員会編『羽地大川修補日記』です。これ一冊でずいぶん遊べますよ~。  

2011年09月08日

蔡温版・羽地大川の写真

現在の羽地大川は、蔡温が改修した当時とは流路が大きく異なります。昭和(戦前)の改修工事で流路が変更されたためです。

昭和の改修前の羽地大川、つまり蔡温が改修したままの羽地大川の姿をうつした写真がないものかと、ずいぶん前から書籍やネットをあれこれ探していました。それが最近、ようやく見つかったので、ここに記すものである!(どーん)

東京大学総合研究博物館に所蔵されているようです。同館のデジタルミュージアムで閲覧できます。
無許可で画像を貼るのはマズイと思うので、以下のリンクをご参照ください。


写真番号6046「沖縄本島北部・羽地の水田風景」
(リンク先の写真をクリックすると拡大表示できます)

蔡温改修の特徴である、流路の連続S字カーブがはっきりとわかります。というより、S字カーブがよく見える位置を選んで撮影しているような気がします。
写真を拡大すると、クバ笠らしきものをかぶって農作業に勤しむ人々や、水田にたたずむ牛たちの姿も見えるのです。素晴らしい!

デジタルミュージアムの説明を読むかぎり、撮影したのは人類学者の鳥居龍蔵のようです。鳥居龍蔵の沖縄調査は1904(明治37)年なので、そのときのものでしょう。
鳥居龍蔵も、蔡温版・羽地大川の奇妙な形に興味をひかれたのかもしれません。正直、鳥居龍蔵って名前ぐらいしか知りませんでしたが、じつに良い仕事をなさったものであるよ。

鳥居龍蔵の沖縄調査では、伊波普猷もこれを手伝ったそうです。伊波はこのとき、蔡温のことを鳥居龍蔵に語ったのかもしれません。このカメラの横には、「沖縄学の父」が立っていたのかもしれません。
かもしれませんばっかりですが、いろいろ想像をかきたてられます。


さてこの写真、どこからどこに向かって撮影したのでしょう。
大雑把な感じとして、下流(海)側の丘から上流の方向を写しているように見えますが……。
これは、現地に行って確かめないとわかりませんな!
次に沖縄に行くときは、同じ場所に立って同じアングルの写真を撮るしかないな!(また羽地まで行く口実ができて嬉しい!)


それにしてもこの写真、もうちょっと早く見つけていれば、編著書に載せられたかもしれないんですけどね。残念です。

え、編著書とは何かって?
それはですね、ボーダーインク刊『蔡温の言葉』のことです!
琉球王国の最も偉大な政治家・蔡温の著作を現代語訳しています!
沖縄の本屋さんか、本土の大型書店で探してね!
ボーダーインクのホームページ(上記リンク)からも購入可能! 送料無料! 宣伝乙!


……最低な締めにて、今回はこれまで。  

Posted by 茶太郎 at 21:41Comments(0)TrackBack(0)メモ

2011年08月06日

米どころが見つからなくてコメっちゃったの巻

前回からのつづき



しばらくすると、こうして開けてきます。

この平野こそ、羽地大川改修工事の中心となった場所。琉球屈指の穀倉地帯だった羽地ターブックヮです。
うん、広い!(もっと感想を工夫しろ!)



今はもう、このあたりで稲作は行われていないようです。ほとんどがサトウキビらしき畑でした。



我部祖河川

我部祖河川がこんなにまっすぐになったのは戦後のはず。1945年に米軍が撮影した空中写真では、もっとウネウネしています。



このあたりまで遡ると、かなり岸辺が整備されていますね。



地層が見えるということは、ここは初めて掘り返された場所と考えてよいのかな?



ここで一旦、行き止まりです。



対岸に一面だけ水田が見えました。


引きかえして、平野をぐるぐるめぐります。









レンゲ草の花畑




レンゲ草は空気中の窒素を固定して、土を肥やしてくれます。昔は牛の餌にもなったそうです(Google先生調べ)。



蔡温がつくった流路の名残

水の勢いを抑えるため、S字カーブを連続させるような流路を意図的につくったのが特徴。



このカーブはその名残なのかもしれません。


そんな由緒ある用水路とも知らず、のんきにチャプチャプやっている鳥がいました。



「水ウメー」

諸行無常にて候。



さらに徘徊していたら、こんな立派な井戸が。



こりゃ飲めん。



近くに拝所も。



「二百年記念」



「昭和十一年八月廿日建立」

昭和11年=1936年。
1936年-200年=1736年。
蔡温による羽地大川改修の翌年ですね。
羽地大川の改修後、このあたりには新村がいくつか建設されています。ここもそういう村のひとつなのかもしれません。つまり、村の創立200年記念。



「内袋橋」

田袋(ターブックヮ)にゆかりのありそうな名称がちらほら見えます。



「伊奈田」かと思ったら、そのまま「稲田」でした。


県道を越えて川上地区へ向かいます。



「羽地大川改修顕彰碑」

これは蔡温の改修ではなく、昭和の改修の顕彰碑。川上公民館の敷地にあります。見つけたのは、たまたまです。
蔡温による改修の記念碑である「改決羽地川碑記」も復元されているはずですが、どこにあるのかわかりませんでした。まあ復元だしと思って、あまり熱心に探さなかったので……。


しばらくこのあたりをさまよったのは、もう一度、この田園地帯を見たかったからです。

前回は人に教えられるままに移動したので、そもそも自分の行った場所がどこなのか、よくわかっていませんでした。

やっぱり見つからないか……。あきらめかけたそのとき、我々はついにその場所にたどり着いた!(注:一人旅である。)



青々としとるー!

前回は冬だったので、何も植わっていませんでした。今回は6月初め。こんなに田んぼ田んぼした景色を見られるとは! 素晴らしい! 稲ってイーネー!(待て!もうすぐ終わるから!)






稲の花が咲いとるー!




ナイチャーの私にはびっくりですが、6月のうちに稲刈りするんですよね。稲刈りは赤とんぼの季節にやるものという固定観念が崩れ去ります。




それにしても、田園地帯の空気感は、沖縄も本土もそっくりです。きっと田んぼの空気は、中国でも東南アジアでもインドでも、それほど変わらないのでしょう。行ったことないですが。